『多木浩二と建築』(「建築と日常」別冊)

編集の長島明夫さんより賜りました。ありがとうございます。

多木浩二は1976年の『生きられた家』から、建築外にありながら建築界における注目すべき論者でありつづけた。美学や現代思想をベースにした論評は、じつのところ建築界の片隅にいる住民であるぼくにとっては、しっくりとくるものではなかったが、大きな方向性はそれなりに共感できるところがあり、リスペクトしつつ距離をとるといった書き手であった。

この別冊は、多木浩二がたんなる評論家ではなく、建築家との思索の場をいかに共有して、批評の空間を構築していたかが紹介されており、証言としての価値も大きい。

そこで学生時代の衝撃として、磯崎新、原宏司、そして多木浩二らがいた、そのひとりを、回顧しつつどう再解釈するかということである。

現代思想』2013年1月号は「現代思想の総展望」ということで、大澤真幸成田龍一が対談していた。創刊された1970年代が語られていたが、その知的風景こそ、『生きられた家』の背景であった、ということが納得できた。つまりマルクス主義という大文字の思想が消えつつあった1970年代は、どうじに意識と言語がどういう関係にあるかが問題とされ、思想や世界を成り立たせていたさまざまな枠組みが相対化されていった時代であった。

しかし他方で、過激な近代化に特徴付けられる60年代の反動で、70年代とは保守化の時期でもあった。1930年代論が議論されたのはそういう文脈であった。

その状況において多木は『生きられた家』を、それこそどう生きたのか?あるいはこの筆者はそれをどう生きたかと、(ぼくもふくめ)読者はどう想定したか?

とりあえずはハイデガーや、現象学理論の適用であるということはわかる。しかし70年代の時代を反映して、「生きられた家」も、見ようによっては保守的でありながら、相対化を予感させるものでもあった。

ただもちろん偏見と自覚しつついうと、「生きられた家」論は具体的な叙述ではなく、きわめて観念論的であったことが建築界にとってはなじみにくいものとなった理由であろう。つまり作る側、供給する側の論理が、20世紀にあっては合理主義的、あるいは方法論的、概念的になってしまう。そういう合理主義の立場にたいし、生きられた世界、生活世界を説く側も、対極にあるはずの人間性の根源を示すために、象徴論、宇宙論、などといった別の普遍的世界を描こうとした。たとえばバナキュラー論、建築家なしの建築論、ミクロコスモス論、などはそういう同じ系統であろう。

おそらく建築界は「生きられた家」と聞いたときに、ベタなまでに生々しい現実世界を予想したが、提示されたのは当時きびしく批判されていた機械論的合理主義をはるかにうわまわる観念論であった。ただこの観念論は、ベタな世界を無視しようとしたのではなく、生世界を読み解くための枠組みを構築しようとするためのものであった、のであろう。

そうでなければ、社会的プログラムから自律した建築を構築しようとした建築家たちと思索の交流もできなかったであろう。

いずれにせよ「生きられた家」はサスペンディドである。