シンポジウム「丹下健三没10年『今、何故、丹下なのか』を問う」

日曜日に建築会館でお話ししてきた。サプライズ参加した磯崎さんが最後をまとめたこともあり、もりあがった。

パネラーごとにかなり多様な見解がだされた。結果論としては、3人組で討論するもいいが、各論の積み重ねでよかったのではないか、という気もする。

それはいいとして、丹下を論じることは、これで終わりなのではなく、ここから始まる、というのが参加者としての実感である。それは日本の建築界にとってとてもいいことである。

まず没後これまでの企画は、やはりまず思い出すこと、生き直すことから始まるのは当然であり、さまざまな記録や記憶や逸話の掘り起こしに力をいれなければならない。それは完了はしていないが、この一〇年でかなり前進したように見える。

そこで今回は、これから本格的に丹下を論じ、そこから建築論を発展させるとともに、さらに建築史叙述とその枠組みを展開してゆくための、最初の作業であったのではないか。シンポジウム全体としては、丹下を論じるための枠組みをどうするか、枠組みとしての20世紀をどう扱うかという基本的なことについて、前進がみられたように思うのである。

丹下論としては、丹下は国内限定では論じられない、国際的な共有遺産である、いいかえればより広い普遍的な建築の世界にいざなうのが丹下である、という愚説を述べた。それにたいし、丹下はCIAM会議などでグロピウスなど世界的なイデオローグたちとの意見交換のなかで、かなり緊張したものいいをおこなっていたなど、当事者からのご指摘もいただいた。

20世紀枠組みについて、司会者から日本近代建築史の記述が、いつも第二次世界大戦でおわることの問題をどうおもうかという質問があった。愚見としては、まず稲垣榮三『日本の近代建築』は、ニュートラルな時代区分とテーマ分類をしているようで、じつは堀口捨己を定規として全体を構成しており、いわば近代建築家・堀口にむけてすべてが合流しているかの意識で書かれており、かつこの構造はいわば隠し味のようにひそかに滑り込まされている仕組みなので、読者はそれとは知らず、各論併記のような全体なのに、妙な統一感を感じることになっている。この「妙」さは、この書全体が堀口への宛て書きとおもえば、すべてが氷解するのである。ただいっぽうで、そうだからこそそこに丹下健三は書けなくなってしまう。そういう構造的な課題がのこる。

もうひとつは、戦後の近代派/近代批判派の二元構造である。とくに戦後すぐに生まれた世代のひとびとは70年代前後に近代批判を展開する。その構造は、いわば原理主義的に、たんに60年代の高度経済成長批判にとどまらず、明治維新前後をふたたび生き直すような、尊皇攘夷の再生のようなものであったという指摘さえある。さらに三島由紀夫豊饒の海』にあるように、戦後という時代はまったくの虚無であるというスタンスはそれに重なる。ぼくは、三島が主人公に感じさせた最後の虚無感は、8月15日のそれを描こうとしたのではないか、とあくまで比喩的に述べたのだが、それにしても、戦後という時代には、ある種フロイト的な意味での抑圧がはたらいているのは、思想のみならず建築も同じなのだ、だから戦前戦後の連続性はわかっていても、通史は書けないのだ、という指摘をした。それにたいし、戦後の圧倒的なアメリカ的価値観の支配や、そのなかで丹下が日本的建築を論理化するのは、一種の戦いであるというような説明もいただいた。

それにしても「神々のスケール」はもっと生産的に論じたかったものだというのが、帰りのタクシーのなかで感じたことであった。丹下は神々のスケール/人間のスケールという二重構造である。最後のパネラーが、この二元論はじっさいは社会/人であり、さらに具体的にはこれら二種類の都市モデュールと建築モデュールをひとつのプロジェクトで使い分けるので、担当者はたいへんであったという逸話が披露された。それはそれでよいのだが、そうすると「神々」と「社会」はどう関連するのか、が課題となるはずである。

じつは基調講演的なものを担当したぼくが大前提で指摘したかったのは、まさにこの「神々」と「社会」との関係なのである。最後にはこのテーマに回帰したのだが、やっとたどり着いたともったら時間切れであった。

多様な論点があったので、絞り込むことはできなかったのである。さいわい延長戦のおさそいもあるかもしれないので、機会がいただければ、がんばってみる。