学としての建築

昨日、日本建築学会の建築雑誌編集部ご一行様が研究室にこられた。「留学」について意見交換をした。同僚たちと取り組んでいる「環境設計グローバル・ハブ」を宣伝していいということなので、準備もした。「留学」はグローバル化時代の重要項目なのであるが、関連する事項も多く、ミーティング、懇親会、二次会になっても議論はおわらない。 

そういうなかで「学としての建築」が甦る。ぼくが大昔、修士論文で建築アカデミーを論じたとき、建築をひとつの学問体系、教育体系としてとらえなければならないと主張したことによる。とはいえこのときは、西洋の17世紀と18世紀の、古典的な時代についてであった。 

「留学」について語るとき、それは19世紀から今日の21世紀までとなる。すると建築の「学」というものは、設計事務所、アトリエ、専門学校、大学、大学院という場で展開されるものになる。すると留学は、アメリカかヨーロッパかアジアかという行き先だけでなく、どの学がどの制度で展開されるどの場なのか、ということを考えねばならない。留学は、教育、職能、資格制度、思想文化などとふかくかかわり、建築の体系を成長させるための揺籃のようなものである。そして21世紀にはそれ特有の留学のあるべき姿があるのであろう。なるほど、日本建築学会からの重要な問題提起ということで、納得である。 

そのうち「建築雑誌」の特集になって公表されるそうである。楽しみである。 

そういうわけで、ここでは雑談的な余録をのこしておく。ぼくが個人的に尊敬する留学は、まずゼンパーのパリ留学(1830年ころ)とロンドン亡命(1850年ころ、かつては留学=亡命であった)である。マリオ・カルポ『アルファベットそしてアルゴリズム』の面白さを若い先生方と共有できたのでうれしかったのだが、ゼンパーはベタな折衷主義者ではなく、まさにアルゴリズム構築者なのであり、つねに移動しつつ、移動したからこそ、特定のコミュニティ内部に自足しない普遍的な理論を構築できたのであろう。  

岡本太郎のパリ留学(1930年代)もまた、真似できないなにかである。20世紀の核心、当時の前衛思想をとらえているような留学である。のちの東京計画や丹下健三との関係もあるが、モースの贈与論やバタイユ思想を参考にした論考は、やがて沖縄論や東北論となって結実する。これを含まない20世紀論は貧相なものとなるであろう。パリ留学者として後輩にあたる(などという身勝手な自己評価)ぼく自身にとってもまだまだこれから消化すべきものを含んでいる重要課題でありつづける。
ぼく自身は1980年代中盤にしばらくパリにいた。立派な建築家になろうとおもえばアメリカに留学すべきであった当時、パリを選ぶのは伊達粋狂であった。シャンソンも映画もそこでは終わっていた。そのパリで、国家を背負う使命感もなく、革命をもちかえろうという正義感もなく、亡命というほどの大仰さもなく、当時の流行であったモラトリアムであった。仕事もせず、奨学金ですくなくとも8年間は生存させてもらっていたぼくの20歳代。それは真空であった。その真空のなかで、パリを経験させてもらったことは僥倖であった。それは謙虚に感謝しなければならないもののようだ。