再録・葉祥栄論その1---内野高齢者生活福祉センターなどについて

*この小論は毎日新聞西日本版1995年7月28日掲載、見出しは「葉祥栄---建築の可能性 屋根と大地の縄文的な造形」

 建築の本質は柱か壁かという議論がかつてヨーロッパにはあった。18 世紀のいわゆる啓蒙主義の時代である。荷重を支える柱と、間取りすなわち機能にとって重要な壁のどちらが建築にとって本質的か、という議論である。
 しかし景観にとっては、屋根と床はそれよりも大切ではないか。つまり、屋根は空との、床は大地との関係を示している。従ってそれらは柱や壁より重要である。建築は、空と大地の間に位置し、それらの力を受けながらも、そうした諸力をやりすごし、あるいはそれらを変換し操作し、両者の間にうまく調和的に介在してゆく。そう建築をとらえれば、それはまさに人間の営みそのものではないか。
 葉祥栄の最近の作品、筑穂町内野の高齢者生活福祉センター+内野児童館と、内住コミュニティセンターを見てそう感じた。

 これらの作品は、その屋根の独特の形態が特徴的である。実に自由で変化に富んだ曲面でできている。鉄筋コンクリートによるシェル構造の曲面屋根だが、それは西洋建築に伝統的に見られるボールトあるいはドームとは著しく異なっている。
 西洋建築のそうした屋根構造の特徴は、その強い規則性あるいは幾何学性である。西洋のドームは、もともと組積造の原理でできている。鉄筋コンクリートとは違って、補強材としての鉄は部分的あるいは例外的にしか使われない。従って球形や円形などのように応力を計算しやすく構造的に有利な形態が選ばれる。その結果、平面もこうした原理に支配されて、円形や正方形といった幾何学が支配的になる。またその幾何学性がヨーロッパ建築の魅力でもあるのだが。
 そうした伝統はコンクリートのシェル構造で大スパンの橋やホールを多く建設した20 世紀の大建築家ネルヴィのなかにも生きている。彼は、建築史家ギーディオンによれば、この新しい構造の可能性を最大限にいかしたとされる。しかし彼もやはり幾何学的な構成という伝統を引き継いでおり、調和は計られているとはいえ、自然のなかで人工的で幾何学的な造形物を対比的に使っている。
 葉の建築は、平面がまず自由である。内野では、集会室、個室、食堂、児童図書館といった多くの機能が比較的自由に、敷地の形状に従ってのびのびと設定されている。次に屋根構造が決定されるが、支柱の位置もまちまちなのでコンピューターによる構造計算が不可欠である。しかしその結果、屋根の形は自由な平面を反映した、変化に富んだものになる。
 これは公園などの設計で、道等をあらかじめ図面の上で決定するのではなく、自然にできた獣道を後から整備して道とするのと少し似ている。つまりあるアプリオリ幾何学性から始めるのではなく、手続きは徹底して合理的だが、それ故に逆に、最初の偶然性がうまく表現のなかに反映される。その結果、客観的だが変化に富んだ屋根ができた。
 内野の建物は、利用者である老人の足元を配慮して、徹底して段差を排除している。中庭の芝生も、縁側も、内部の床もすべて同じ高さにある。外周はすべてガラスであるから、床は大地のそのままの延長なのである。その結果、これは民家における土間の開放性に似たものとなった。屋根は大地の上に漂う雲か霧のようだ。あるいは林か竹薮に例えたほうが適切であろう。コンクリートの柱は木や竹の幹を、屋根は茂った枝と葉を象徴する。村の人々は、この木陰で自由に集う。
 内住は、保育所のような施設として使われているが、床レベルはここでは外と同じではない。敷地はすこし盛り上がった場所にあるが、逆に、内部の床はすこし凹んでいる。屋根は襞のある複雑な形状だが、大まかにいえば円錐形をしており、一番高い部分が水平に切りとられ、天窓になっている。私にはそれが竪穴住居のように思われた。
 やはり偶然性の面白さと合理性を両立させたこの屋根の形態が、山あいの地形に馴染んでいるのは、床を地面より低くして自己主張させていないことが効果的ではないかと思っている。
西洋建築には床は重要ではないかと思われるかもしれないが、「基壇」は造形上、人工的な構築物を周辺から際立たせるためには欠かせない要素である。それは環境や自然に対して対峙しようとする。
 葉の建築は、屋根と大地からなる縄文的な造形である。南方的な高床ではなく、明らかに竪穴住居を髣髴とさせる。そしてこうした古代人にとって屋根を架けることが最も重要なテーマであった。
 とはいえ、もちろん彼の建築は、歴史的な形態を単純に再現する民芸調の方法によってできているのではない。自然との関わりあい方が根源的なのであって、その根源性において古代と繋がるのである。
 ここではそれがコンピューターを使った合理主義的方法によって生まれることが興味深い。建築構造は静力学の問題だが、この力学は人工物のみならず自然現象をも支配しているはずである。葉祥栄の建築はこうした単純な事実を私たちに改めて気づかせるとともに、私たちが気がつかなかった建築の可能性を開こうとしている。