岩元真明『ヴァン・モリヴァン』2025、読書感想

岩元さんから送っていただきました。ありがとうございます。
個人的なことで恐縮だが、岩元真明さんやそれから日本建築史の加藤悠希さんなどはぼくのキャリアにおける最後の同僚にあたる人びとである。彼らがきたので、ぼくも思い残すことなく大学を去れたのももう6年前である。
ご縁はそれだけでなく、本書の原型となったD論を読む機会もあった。だから大改訂の後半をまず読み、それから前半はすこし急ぎ足で目を通した。読み方としてはあまりよろしくないが。
内容はいろいろなメディアで紹介されるだろうから、ほんとうに感想だけを書く。
岩元さんはじつに多能な人で、設計、建築史研究、教育、アーカイブと展覧会開催などなんでもこなす。世代的にはうらやましい。なにしろ昔は専門洋書をのせた船便を3ヶ月以上も待つという時代であって、Amazonで検索して数日後には洋書を入手するという状況は、ぼくにとってやっと50歳近くになってからであった。またアーカイブもネットで海外から閲覧できるなどという現状はまことにねたましい。どれだけ人生を無駄にしたことか。・・・それはいいとして、情報技術が発達すると、昔の2倍3倍働けるのだなあと感心する。もちろん足でもかせいでいる。そういうこともあって大林組関連のアーカイブや、地球をかけめぐっての資料収集だけをとっても、まさに今の時代にふさわしい貢献といえるであろう。
非西洋圏での建築家の形成、ナショナル・アイデンティティ、地域性・風土性、ポストコロニアルなどはとうぜん設定されるべき枠組みであろう。ただそれらはチェックポイントを丹念に埋めているという印象である。
ひとりの建築家のなかに世界(性)が封じ込められている。そんな伝記である。パリ留学も大きかったのだろう。建築学、植民地支配、国際関係。20世紀にあってパリやひょっとしたら東京も、革命の中継基地であったといえるであろう。そこで国家建設の理念も、権力転覆のノウハウも学ばれて、現地で戦闘となって相まみえるのであろう。
かつて「建築雑誌」の留学特集で、留学生2パターンがはっきりしていると愚論を述べたことがある。①帰国して国家形成を担うエリートとなる人。②帰国して革命家となる人。モリヴァンは前者であるが、後者の同胞人もいたわけである。
ナショナル・アイデンティティの探求は多くの地域にみられる現象だが、歴史、文化、法制度、経済、政権といった一式をもって国家として相互認知するという近代システムのなせるわざでもある。アジアをやっている人はそれが普遍的だと思っているから、ぼくなどに「フランス建築」の概念はいつごろ希求されたかと質問するのだが、(ルネサンスのころフランス建築という言葉はあったが、そもそもフランスはそのころ民族国家ではなかったから参考にならない)「フランス人は歴史的にとりたてて『フランス建築』を希求しない、彼らはたんにジ・アーキテクチュア(普遍的建築)を探求するだけ」と答える。もちろんこの枠組みに西洋中心主義が加わると押しつけになってしまうが。ところで「日本建築」「日本的なもの」の概念形成はわりとうまくいったとおもうのだが、これは西洋に対する対抗文化なのであって、そのぶんジ・アーキテクチュアの形成が遅れてしまったと思われる。するとカンボジア的状況は歴史的にどのように位置づけられるのか。
さらにいえば今でいう全球的俯瞰は西洋はすでに19世紀後半にはやっているのだが(ヴィオレ=ル=デュク『人類住居の歴史』1875についてぼくにたずねる人もいた)、その俯瞰的視野のもとで地域的特性を確立しなければならないのは外圧というものではないか。
そういう意味でモリヴァンが宗教遺跡の構成に注目して《偉大なる構成》をいうのは、アーカイブが十分でないのは残念だが、仏教国としての地域性というより世界性だといえないのだろうか。つまり彼がいたころのパリは、東洋文化研究が進み、文化人類学、宗教学の研究も進んでいて、仏教の仏教性ではなく、仏教の宗派を超えた宗教性という視点も確立されていた。フランス人建築家の分析を参照するのは当然なのだけれど、そもそも建築界の宗教理解がどの程度であったかはきわめて興味深い。ちなみに現代日本の建築史家が、アジア圏の宗教遺跡を語るとき、初源の時間と初源の空間、その反復などというのだが、それは20世紀中頃には確立されていた宗教学における宗教モニュメント理解のごくベーシックな言い方である。すでに専門家も自覚なくそういう意識でみている現状である。20世紀の思想史などもっと書かれなければならないようだが。そういう観点はアンコールの宗教性の議論(p.286)でもいえるであろう。
恨み節に聞こえるかもしれないが、日本における建築史研究が、1980年代における重心の移動から、むしろ非ヨーロッパ圏中心になってしまって、今や日本人による西洋建築史研究はほんとうにニッチ的になってしまった。別に西洋中心主義にくみするのではないが、この傾向は建築史学の基礎体力の低下ということになって、いい結果をもたらさないであろう。
D論審査の時に「国家(的)建築家」などというものだから、かなり異論が噴出したが、それでいいのだろうか。本書の最後のほうでは「国際的建築家」でもあったなどと追記されるが、苦しい。ぼくはモリヴァンの生涯はそうしたカテゴリーをさらに超えるのだから、そういう類型化はかえって矮小化だと思う。
一般的に、宮廷建築家、王の建築家、国家建築家、国際的建築家などという描き方はある。しかし制度上の役職名であるのはごく稀で、ほとんどは研究者による形容詞付加である。学術的研究としてしては、それらは学説相当であって、与件ではないとうけとるべきである。
ちなみに「○○建築家」「○○主義」「○○様式」というカテゴリーをわけて、それらのどれに該当するかという論の進め方が好きなようである。もちろん「○○主義」などという言葉で思考することじたいが西洋中心主義だと岩元さんは警戒をおこたらないので安心なのだが、様式概念など、カテゴリーは研究の方法論として疑って計画したほうがいい。
昔話で恐縮だがかの鈴木博之さんは『建築の世紀末』を書いた頃、法政大学で非常勤講師をしていたが、その法政大学の教授に「あなたが本で書いている『様式主義』なる主義など建築史にはないよ」と酷評されたそうである。ぼくは本人から聞いた。彼も若かったのだ。彼でさえそうなのだから、建築史の学的方法論に疎い人がやたら「○○主義」造語を連発するのは、建築史をなめている。
100歩譲って、磯崎さんは丹下さんのことを国家建築家と呼んだし、自身もそうありたいと願っていたのかもしれない。整理すると、国王建築家は国王をパトロンとし、宮廷建築家は宮廷をパトロンとし、国家建築家は国家や政府をパトロンとする。つぎにそのパトロネージは、1物件の建設のみの間か、契約で約束した期間か、ほとんど終身か、パターンがある。ようするに教授も特任、常勤、名誉・・・で区別されるのと似ている。そう考えればどこからどこまで国家建築家なのかをわりと明快に線引きできるであろう。
ところで近代社会は、そのパトロネージをフレキシブルにする。すなわち近代的な職能の定義(「職能」は、高度な学識、倫理観、職能団体の組織、という明快な3点で規定されるのだが)はそもそも、資本主義経済が前提なので、建築家もある意味で商品である。労働者が労働を商品として売るのと同じである。だから近代建築家は、自己をより高額な商品とするために、イズムを表明し、自己アピールするのである。ときにはあざといまでの自己宣伝をする。
ところが本書で描かれるモリヴァンは、国家建設、国家独立というミッション遂行に邁進する私利私欲を捨てた建築家として描かれている。ぼくは良い建築家の伝記として、ミッション遂行型がありうると思っているので、じつは岩元さん描くモリヴァンには感動している。資本とのつきあいや多少の私利私欲はあったとしても、それを凌駕するミッションに忠実であろうとする建築家。その情熱がどこからくるかは知らないけれど。
それと建築史は物語でもあるとどこかで書いたが、亡命をへて帰国する彼はみごとに『オデュッセイア』の帰還の物語をなぞっているではないか。それは居住地のことだけでなく、ミッションへの帰還でもあろう。回帰・帰還する人生=物語のありようは、人生をすこしばかり幸せにするかもしれない。そういうことなので内戦時代にかんする最後の章は、淡々と事実をつなげてゆく書き方とあいまって、感動的である(だからカテゴリー論は読みたくない)。物語叙述はこうでありたい。
原広司×吉見俊哉『このとき、夜のはずれで、サイレンが鳴った』2025、読書感想

ぼくにも原広司先生の研究室に進学するチャンスはあったのだが、あまりに敷居が高すぎて遠慮したというのが偽らざるところである。ひらめきに欠けるぼくは、とうてい原先生に近づける学生ではないので、建築史においてこつこつ積みあげる式のことで、なんとか生き抜こうと考えたにすぎない。そのかわり御著書はそこそこ読ませていただいた。また《梅田スカイビル》についてGA JAPANで、彼の壮大な世界観に対抗すべく、ヘラクレスの柱をもちだしての、やや間延びしていると反省している愚論も展開させていただいた。一方的に感謝しているので、愚論の蛇足にしかならないことでも、書き足してみたい。
対談集は散漫なよもやま話に終わりがちだが、本書における一貫性は際立っている。
吉見さんは、ベルクソンがカントを批判して「時間の空間化」といったことを反転させて、「空間の時間化」として原さんを読み直す。原さん自身は壮大な「空間論」論を展開していたのだが、それをさらに時間論へと展開することで、原さんのキャリアを4つの時間(4つの章)に分類するのである。
深読みしすぎかもしれないが、社会学の専門家はしばしば真木悠介(見田宗介)『時間の比較社会学』の時間の4類型を活用する。だから原さんが生きた4つの時間というのも、そういう基本図式をそこはかとなくにおわせる。こういう気づきが読書の楽しみというものであろう。
さらに彼は、原さんがカミュ『異邦人』に言及したことに注目し、カミュに始まりカミュに終わるという見事な円環構造でまとめている。ほおっておくとあらゆる方向に(とくに数学的な方向に)拡散しそうな原さんの試行を、コンパクトに読めるかたちで収められのは彼くらいのものであろう。
各論も楽しめる(ぼく自身のための備忘録としてリストアップする)。
「第1章 空襲を潜る」は、カミュ『異邦人』における「夜のはずれで、サイレンが鳴った」が形而上学的重要性をもったこと、(終戦後ではなく)戦争末期に奇妙な自由な時空が生まれていたこと、李白の漢詩のなかに「谷」を見いだし、それが造形の原型となり、《京都駅》に結実したこと、さらに建築類型として、タワー、モニュメントではなく、谷、門を重視するようになったこと、大江健三郎との一種の協働において建築/物語のパラレルワールドとなっていたこと、などを指摘している。
ぼく自身は、穴、有孔体・・・はヘーゲルの否定の弁証法における、否定による次なるものの産出のようなことと思っていた。そう解釈できることは誤りだとは今でもおもわないが、原さんの心のなかでは谷、門であったかということ。
「第2章 旅する建築」は、調査した集落は逃亡者たちのそれであったこと。調査経路が1文明の内部ではなく、複数の文明を横断するものであったこと、を指摘している。
「第3章 夜のはずれで」は均質空間、有孔体、離散的なもの、などを語る。吉見さんは漱石『それから』やヴェーバー『・・・資本主義の精神』をもちだして議論を仕掛ける。20世紀に日本が資本主義化することと均質空間の関連を問う。しかし原さんはいちど20世紀初頭の時代に遡及し、構想力、量子力学、記号場へと連想してゆく。このあたりは社会学者と数学的建築家の綱引きであろう。
「第4章 場面を待ちながら」。原さんは「場面」を想定して設計することが紹介される。ただそれは映画監督が想定するような発生しうる演劇的な場面ではない。どうもこういう場面がいいという話ではなく、場面を「待つ」のが建築だという独特の時間意識がありそうである。
そういうのは原さんらしいと思う。かつて磯崎さんが「100柱の間」を建設したとき、原さんはその100柱がすべて異なる情景を思い描いたという。さすが均質空間批判者なのだが、そういう発想はなかなか真似できない。そこから『ゴドーを待ちながら』に接続する吉見さんはさすがなのだけれど。
最終的にはカミュ『異邦人』の話となって、目論まれていた円環構造はできようとしている。話は、カミュ、サルトル、レヴィ=ストロース、アーレントなどいろんな題材がつぎつぎと引用されて、めまぐるしい。ある意味わくわくする。ただどうもまとまらない。
推測するに、理由は「キリスト=マルクスを拒否するカミュ」(p.150)や「ユダヤ・キリスト教的時間と地中海的時間」(p.168)あたりがやや混線しているからであろう。過去の読書からすると宮代真司『終わりなき日常・・・』や大澤真幸『虚構の時代・・・』などはそれぞれ真木悠介の時間の4類型をベースにしているので、その上にのるトピックはどうであれ、読者は迷子にならない。しかし本書では、専門外読者のために4つの時間概念などというむつかしい説明は省略しているので、かえってわかりにくい。もちろん空間論の原さんであった、その空間論を時間論に変換するという目のさめるようなことを吉見さんはしているのだが。
もうひとつそれに関連して「マルクス主義=黙示録」はすくなくとも西欧では一般的な発想である。最終的にプロレタリアートが勝利するという科学的歴史観と、世界の終わりについての黙示録的イメージはかなり重ねられる。それは恐怖である。だから宗教学では「歴史からの脱出」が語られる。そういうベーシックなものを下敷きにしたほうが原さんはわかりやすいような気がする。
ともあれ奔放に連想してゆく原さんにかんする一貫した読みを提供しようという社会学者の能力がいかんなく発揮されているような印象である。均質空間の権化であるグロピウスが、生活世界の構築をめざしたソローの小屋の近くに居を構えたという、美しい逸話で本書はしめくくられている。
雑な感想で申し訳ないが、優れた社会学者はときに優れたストーリーテラーでもある。つまり社会学者がそのレベルで専門的な抽象概念で語りはじめたら一般読者はお手上げである。だからそういうとき、社会学者はある事件、ある犯罪者、ある当事者に注目して、そのひとりの人物の物語を語り、そのなかで社会という全体を読者に教える。もちろん原さんはそういう事件人物でなく、皆が尊敬する建築家である。対談ではあるが、深い示唆に富むひとつの「物語」になっていることに、ぼくは意義を感じる。
蛇足だが、原さんが1925年という時代の変わり目の重要性を指摘している(p.48, 115)あたり、ぼくなりの時代区分と整合する。また人生を物語に喩えるのはよくあるが、原さんがそれを「おとぎ話」にするあたり、つまり悲劇・喜劇・風刺劇のどれかとはしないあたり、個人的には共感する。
対話者の遠慮や気遣いにあふれながらも、本音と刺激に満ちた一冊である。
デザインレビュー2025/1次選考後の60応募作品からのメッセージ
2025年3月22日 福岡大学ヘリオスホール
*2日にわたる審査の途中で、1建築史家として60作品を俯瞰してみました。


【1】都市計画の「100年の」終わりは、昭和100年(1925-2025)の終わり
20世紀初頭、近代化が順調ないわゆる先進国では「都市計画法」(1910-1920年代)にもとづく都市計画という体制が整えられた。近代の都市計画とは、マスタープラン、ゾーニング、ビルディング・タイプ、階級的人間から「標準」的人間へ、である。全体像すなわちマスタープラン(一種のイデア)から下降してゆく方法論である。
この枠組みは50年間はよく機能したが、つぎの50年間は住民参加などの諸概念により批判された。むしろ批判の受け皿として機能したともいえる。そこでは計画/非(不)計画のはざまが浮上し、計画と現実の差、実現からのフィードバックがもとめられた。
応募作品のなかには「反・近代都市計画」的といえるものは多かった。「1008無為の空間」は空虚なタワマンであろう。「1034雨だれの家」「1037公共集落」「1046銀座未来予想図」「1221神宮外苑の農動体」などである。
また施設「ビルディング・タイプ」の輪郭の曖昧化を指向したものもあった。「1189学びの参道」「1206スクール・パス・ワークス」、子どもショートステイ「1309ひとつ、空の下」「1325間/知に集えば」など、子どもを施設に幽閉せずに、むしろ学校のなかに社会を導入しようという諸提案である。ただ今日、とりたてて目新しいとはいえないのであるが。
あるいは計画してもかならず残ってしまう不計画・非計画の残余ともいうべき隙間(すきま)のデザインをする応募案も多かった。「1068移住者の家」(設計者の計画性は立派であった)、「1120交差点建築」、残余地にかかわる「1136skope-in」「1112月星モンタージュ」「1119世代を超えて受け継がれる大地」「1138都市寄生」「1396滲むものづくりの境界」、バッファ的な軒下空間をつくる「1150彩個の軒陰」。
参加型の都市計画の主体を公共団体ではなくコミュニティにする改良型の都市計画「1153おてんまの景」もあった。
【2】「人間」の定義が変わる
19世紀末まで階級・階層により人間は区別されていた。
1920年代にもなると階級をさまざまな人種的・社会的カテゴリーをこえる普遍的な「標準的人間」が想定された。そののためのミニマム住居が構想された。「ミニマム」とは床面積が最小なのではなく、標準的人間にとっての最低限の生活の条件があるだろう、という発想である。だから社会政策としての住居には、最低限の空気、水、エネルギー、情報、面積が与えられねばならない。また社会政策という概念が発生し、社会保障、健康保険、8時間労働、普通選挙・・・などの諸制度ができた。論理を逆転させて、これらの諸制度によって構成され再定義されるのが標準的「人間」なのであった。
20世紀後半はそれへの批判がなされる。ハンディキャップが配慮される。身体・感覚・精神が「標準」から離れた人をふたたび人に組み入れる。インクルーシブ・デザインがなされる。標準的な人間とは結局、白人男性ではなかったかといわれ、多様な人間を受け入れようとされる。
この観点では「1107私「から」あなた「まで」」が個人と個人の距離感によりプロジェクトを決めていこうという点で面白い。距離が個人を決めるのである。
【3】さまざまな「転回」
私たちはどのようなアルゴリズムで建築を考えているか。それは近代哲学の流れとほぼ同じであろう。すなわちさまざまな転回(turn)である。
「認識論的転回」:デカルトの「コギト」やカント「コペルニクス的転回」のような、存在論から認識論へ、客観から主観へという転回である。哲学の初歩なので、ここでは言及するだけにする。近代的自我はここで成立したようだ。
「言語論的転回」:昔は現実を言語により言い表すとおもわれていたが、そもそも言語そのものが現実をつくっていたのだと暴かれる。バートランド・ラッセルや、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインなど。ぼくの『言葉と建築』の基礎。
「空間論的転回」が1980-90年代になされたとされている。空間のなかに社会がつくられるのではなく、そもそも社会が空間をつくるという発想である。エドワード・ソジャ『ポストモダン地理学』、アンリ・ルフェーブル『空間の生産』などが参考文献。20年ほど前、歴史学の学会を傍聴していて、西洋の歴史学・地理学・社会学はなどは「空間情報学」が主軸になっているが、日本は10年遅れているという危機感の表明を聞いたことがある。空間情報学とは「ウェブ・マッピング・プラットフォーム」、「データ・マッピング」手法のようなもので、都市・建築の私たちにとってはなじみ深いはずである。
「生態学的転回」は最近のものらしいが、人間が存在ししかるのちに環境と関係をむすぶのではなく、環境はそもそも人間を規定しているという理論である。ジェームズ・ギブソンが提唱した生態心理学がよく言及される。人間と環境の一体性そのものが世界を構成しているという発想である。
つまり近代的指向とは、これまで因果律の発想から、原因があってそして結果が生じているというが、その「原因→結果」は反転させられるという発想がつづいたのである。これは愚見によれば、因果律というのは脳=人間の意識にそなわった図式なので、原因も結果もどちらの意識が構成したものにすぎない、だから反転可能なのだ、ということである。
ここで時流をとりいれて、愚見では、「データ的転回」もありそうだ。一般的には「情報学的転回 Informatic Turn」というらしい。成田悠輔『22世紀の民主主義』のいう「無意識データ民主主義」である。人間はデータを残す。するとデータから人間を再構成することができる。しかしデータを残すのは、人間はおろか、動物、生物、いや物や概念でも、さらにデータそのものでもある。そうすると人間は特権的な立場ではなくなる。人間はデータを残すひとつの「アクター」として格下げされるのだろうか。
そういう状況を垣間見せるのが「1002暮らしの仕舞い方」、「1007本町アーカイブ」である。
【4】用強美から用強微
構造主義的アプローチと微積分アプローチは対称的である。
「構造主義的アプローチ」としては丹下健三『建築と都市』がある。「開いた系と閉じた系」であり、脊椎動物の基本構造、脳と神経系のリニアな構造で、都市をつくっていこうという発想である。構造は全体、骨格、部分という順番で規定する。
たほうニュートンとライプニッツが基礎をつくった微積分学は、微小部分の集積として全体を構想する。「微分的アプローチ」では、全体から微小部分に降下するのではなく、その逆である。「指標」に注目し「スライス」し「スキャン」する。だから用強美ではなく用強「微」である。
「指標」を選んでスキャンし、データを読み取り、蓄積するのはもはや日常である。活動、生業、行動、所有物、記憶・・・・等がその対象となる。「1195微分都市「変わる暮らし・・・」」や「1090尼崎ラプソディ」(平野啓一郎の分人主義)はその手法に意図的である。
たほうスキャンするすなわち「微小部分をとりだす手法」の手法。「1179新都市軸」は広島をスキャンしているが、観念的ではなく、まさに実体的にスキャンして断面をあらわにすればすごいことになりそうだ。「1191空地から種地へ」はすでに線引きされているが、まだ実現していない都市計画道路線が、じつはスキャンになっているという、発想の転換としてまことに面白い。
たいへん面白いアプローチだが「全体」は喪失しており、「世界」「環境」に委ねようということかもしれない。ここ100年の変化である。
【5】『存在の大いなる連鎖』と『存在の四次元』
古代・中世からの伝統的な考え方で「存在の大いなる連鎖」という概念がある。神が創造した世界ではすべてのものは関連しているという思想である。だから今日、エコロジー、環境、地球などといわれるのはその末裔か現代化といったところだろう。世界をひとつの生命とみるみかたは、いわゆる「ガイア理論」(イギリスの環境科学者ジェームズ・ラブロック)などが例だとされる。
ここで「存在」とは神そのものだったり、被造物全般をさすこともあるが、なぜか西洋哲学ではそれらはすべて人間意識のなかに入ってくるので、人間、人間意識とほぼ同義だったりする。人間中心主義的でよくないかもしれない。とりあえずそういう学説としてうけとっておく。
この3月に翻訳が出たジョゼフ・ルドゥー『存在の四次元』はわかりやすい図式を提供している。やはり人間中心主義的ではあるが、地球の歴史とは、やがて「意識」が誕生する歴史である。4段階として語られる。
(1)生命的な段階。そもそも無機物のみであった地球に、有機物がうまれ、単細胞生命体ができ・・・という長い長い序説。ここで生命が誕生し、生命は身体をもつ。
(2)神経の段階。動物が登場する。彼らは神経がそなわっている。まだ原始的でおもに触覚である。しかしそれによって運動し、捕食し、消化できるようになる。
(3)認知の段階。おもに視覚と聴覚が発達し、外界からの膨大な情報を生命体の内部にストックできるようになる。ワーキングメモリー、スキーマ(知覚のパターン化)などができる。
(4)意識の段階。生命体は、自分が魂、自我、自意識であることそのものを認識するようになる。物語(ナラティブ、ストーリー、ヒストリ-)により架空の外部を制作できるようになる。
これら4段階により応募作品はみごとに分類しうるので面白かった。4段階は世界の構図にかんする1提案である。それがほんとうに世界の構図を描いているなら、60の応募作品もそれにうまくのるはずだ。逆に、60人の応募者は個々に作業しながらも集合的無意識的において、協働して、みごとに世界を描いているのである。
(1)生命的レベルに対応している応募作
身体は、個体であるが、群をなし、連鎖してゆく。「存在の大いなる連鎖」、世界をひとつの生命とするみかたの分析方法として近年では、ティム・インゴルドの「メッシュ・ワーク」理論が注目されている。人類学者インゴルドはいわゆる4A理論(人類学「Anthropology」、考古学「Archaeology」、アート「Art」、建築「Architecture」からなる統合的アプローチ)を提言している。
世界モデルとしては、階層構造、ツリー、リゾーム、ネットワークそしてメッシュワークが提案されてきた。次第に自由度がふえてゆく方向に展開している。
このカテゴリーにおさまるのが、人間が描く膨大な線分時間である「1318徒歩t分の軌跡」「1015連関する島の生業」「1116菌築のすすめ」「1419軌跡と街図」「1302隠れた豊かさ、テリトーリオ・発酵の町」であろう。
「1490トレンサップ湖上都市」、個ではなく群としての生であり、人間がパラサイトすることで集落が生きているという図式を描いている。生命的に見えるもの、である。
災害が命を脅かすことに対応するのが、高知市帯屋町の避難施設「1372「いのぐ」まち」、黒島プロジェクト「1170、ヒト、モノ・・・」である。
「もの」や「商品」も流通することで全体として生命体の一部ではないかと思えることがある。マーケットを移動する商品と、そこから脱出した商品を、いかに「生かす」かも生命の課題である。この意味では、空間の生産、アウラ、ブリコラージュ、なすすべ(ものの詩学)など現代思想との関連がある。「1174「交換所」」「1280空白と回収のスタディ」「1263再生するゴミと私」など政策レベルを超えた形而上学的意味が与えられてしかるべきであろう。
(2)神経的なもののカテゴリー
神経的をとりあえず触覚的というように限定すれば、昨今の「素材」論に接続できるであろう。素材はかならずしも客観的ではなく主観的でもある。
水は生命の源であり、かつ災害ももたらす。「1041知水、治水・・・」、「1138都市寄生」、「1146繕いを内包する土木」などはそれを考察している。
木。「1047乾燥の森、林業の廻り、記憶・木置く」があったが、もっと荒ぶる木でもよかったような。
灰。火山灰「1059平成新山の島原」は鎮魂の方向へ。「1239灰の行方」は灰のより物質的な意味のほうへ。
石灰石「1057鉱都の系譜」、陶器「1114陶「すえ」」は産業との関わりを展開する。
漆。「1210触れない距離」は、直接触れがたいものの触覚性という、逆説的で深い考察に誘う。
(3)認知的なもののカテゴリー
視覚的なもの、聴覚的なものであう。人間が「外」界から膨大な情報を摂取し、「内化」するという理論がある。自分の内部に世界を再構成するのである。
「1021命を宿した窓」は窓からの見えが世界を再構成するというポエジー。「1108 2.5次元空間街論」はシチュアシオニスト的。「1117遠景に暮らせば」「1242つむぐ記憶、ほどく日常」「1273風景に棲む」「1343見えない世界を見る人へ」「1375脱獄計画」などが共通して問題にしている、見る/見られる関係は、人間という見る主体は同時に見られる客体でもあるという哲学問題を提示している。人間は単純な主体ではなく、客体なのだが、ひとりの人間のなかでこのバランスが崩れると人間として安定しなくなる。それは近代以前からあった普遍的な問題かもしれない。
(4)意識的なもののカテゴリー
哲学も課題は結局のところ、自分とはなにか、自我とはなにかという問題に帰着するという説もある。この意味で、「1127誘の手前、始まりの奥」は、普通は意識・無意識などと階層化される自我を、空間化し、「内なる自分」「自分の奥性」などと異なる展開を指向する。「1375脱獄計画」はここでも意識の危機を提示する。視覚装置などというものは現在では情報技術によってスマートに処理されるのであろう。しかしここではまがまがしい造形として、心に作用するまさにまがまがしい外力を具体的に示そうとする。古くさい造作に新しい意味を与えているのかもしれない。
「物語」論が多かったのも世代的メッセージなのかもしれない。死者をデータ化すれば不死化するという「1488葬送形而学」、「1409うけつがれる記憶」、語り部として文化人類学者を設定した「1358文化人類学者「生きつづける記憶」」、「1282モノ語る家」、作家が多い文士町を描いた「1128ときを巡る縁側」、人類滅亡という物語を暗示する「1024永劫の黙示録」などは読んで面白い。
一言加えるとすれば、物語の「もの」とは物質のことではなく、「もののけ」の「もの」であり、霊的なものである。いまは私たちは活字で物語を読むのだが、かつては語り部が語るのを聞いていたのだ。語り部は先代から伝えられたことを記憶し、人びとに語る。そのとき聞く者は、むしろ超越的な物語が、語り部に憑依し、物語自身を語っているように感じられる。それは太古の人びとの声なのである。だから物語は、超越的で、霊的で、神秘的なものである。人間の意識はそのようなもので構成されている。だからユングのように集合的無意識に注目するのである。
「1176坂道の再聖」は、そのような観点から、霊的なものをそなえた都市空間をつくり、人間がけっして現世的で世俗的なものであるにとどまらない、そういう存在であることを、日常の街路歩きのなかで実現しようとしている。
(個人的な体験だが、今回のデザインレビュー終了ののち時間があったので、アジア美術館で一時をすごしてみた。ある展示をみたあとで、今風の、カフェと書店と休憩場所の複合した、がらんとした片隅でしずかに無為の時間をすごしていると、さっきまでの審査の緊張も遠い世界になって、ぼくの疾走のおかげで苦労しまくっていた学生たちが天使のように思えて、いまここで生きている自分自身がささやかな奇跡のように感じられ、とりたてて宗派に属しているわけでもないのに、世界のなかで生かされている自分について神に感謝したくなるものだ。聖なる時間と空間はなにかの拍子にやってくる。ぼくの再聖なのであろう)
【6】結論
(1)100年前の都市計画パラダイムをいかに転倒するか。建築学分野での反省的な「都市計画史」も登場している。それは昭和の100年、都市計画の100年を反省的に意識のなかにとりこむことであろう。
(2)「根本」的なものに回帰するのはいつだって大切だが、とりあえず人間、生命、神、社会というところか。
(3)人間を再考するとき、とくに「心」を云々する場合、プシケー、魂、霊、霊魂、心、意識、人格(ペルソナ)、自我(エゴ)などと類語が多すぎて困る。これは哲学、心理学、精神医学、人類学・・・などという学問の分野の事情でそうなっているのだろう。建築はむしそれらを横断して考えるべきだろか。
(4)「人」の再定義
19世紀は物質を、20世紀は空間を、考えた。21世紀は「人間」だろうという予想をもつ。 生理的・社会的な標準的人間という100年前の認識をどう超えるか、 環境的・生命的・神経的・認知的・意識的な意味での「人」はなにかはまだ不安定である。さらにAI技術などはむしろ人間を崩壊させるであろう。それに委ねるのか。古くさいルネサンス的な理想的人間のビジョンを復活させるのか。建築の岐路かもしれない。
30回目の福岡建築デザインレビューをひかえて

仙台で卒計日本一が開催されているらしい。もうすぐ福岡のデザインレビューもある。後者は30回目ということで、ぼくは司会によばれている。
そろそろあれこれ考え始める。過去の資料をレビューする。第一回目には架空の動物(ミコストリウム・・・)のための家などさすが卒計的な面白いテーマがあった。
こうした企画から成長したひとびとをフォローするのは面白い。重松象平は都市(博多湾埋立地のプロジェクトなど)をシステムと生態系としてとらえる視点がはっきりしていて今に直結しているという印象をもつ。彼は今年のせんだいの審査員長である。

(いささか手前味噌だが)佐々木翔と佐々木慧もここで成長していった。
いちど資料から、デザインレビュー出身の突出した建築家のリストを作成したら面白そうである。学術論文ネタになりうるであろう。すくなくとも建築ジャーナリズムはそれを集大成し、歴史的意義を指摘してはどうだろう。
とはいえ批判もしてみたい。たしかに最優秀をめざしてレースに参加するのはスリリングで面白いだろう。そのモチベーションはいい。しかし、ただだれが一等か二等かは時間がたってみるとはなはな印象が薄い。
30周年記念頁↓
https://design-review.info/30th/
・・・が示しているように、初めの頃は「アルゴリズム派とリアリズム派」「Living Condition」「Unbuilt」のようになにを議論したかの痕跡がはっきりしていた。だから意義を再発見しやすい。しかし後半はかけ声(思い?願い?)は活発だがとくに建築的な痕跡はうかがえない。なにを議論したのか痕跡が薄い。それでいいのか。
ちなみに「アルゴリズム派とリアリズム派」(1998)は、議論がうまくいかなかったので、ぼくが総括としてまとめたときに使った概念である。提案者たちはそういう自覚はなかったが、第三者から観察してのとりまとめである。ところがそれから9年後の2007年、磯崎さんはそのアルゴリズム概念と建築との関係を論じている。デザインレビューは大建築家の発想をかなり先取りしていたのだ(とはいえ類似の発想をいだいていた人は多かったであろう)。DRの議論のなかからより普遍的な概念を抽出するとはたとえばそういうことである。
ぼくはすでに学生(実行委員会)にメールで「400人が応募する作品群のなかに(これからの建築にかんする)世代的なメッセージはあるのか(読み取ろうとするのか)」と問いかけてみた。どこまで考えてくれたかはよくわからない。
20世紀初頭の近代建築運動が鮮烈な記憶をたもっているのは、かれらが明確なマニフェストを書き、主張したからである。
卒計展はこうした運動ではなく、建築コンペでもないから各人各様でテーマはばらばらである。完成度もまちまち。しかし短時間でも数十のプロジェクトをみていると、やはり全体がなにかを訴えていると感じることはほぼ常にある。ぼく個人としては、だれが一等かも結構だ。一言嫌味をいえば、最優秀を選ぶとは19世紀のエコール・デ・ボザール教育的であり、これこそ古くて、ぞっとしないね、なのだが。そうではなく400人の集合的意識(+無意識)を感じ取りたい。それが未来につながってゆくはずである。
もともとこのデザインレビューは、すべて戦後の設立である九州の建築学科の先生たちが、外国や日本首都圏と比べての劣等意識もあって、インターネット化の力も借りつつ、設計教育カリキュラムを再検討しようということからはじまった。そもそもは香山壽夫先生がアメリカ的なジュリイという方法論(大学教育におけるディベートに相当する)を移入したことにはじまると思うのだが、作品評価としての議論システムをどう大学教育のなかに構築するか、なのである。もちろん議論はオープンで平等がのぞましいが、大学における教師/学生関係はよくもわるくもはっきりしているので、大学内ではやりにくい。それを改善するために、大学なら外部講師を招くのだが、より本格的にはこのデザインレビュのようなインターカレッジの形式がよいのは多くの人が認めるであろう。
ではよい議論とはなにか。個人的な考えではあるが、テーマがはっきりしており普遍的ならばよい議論となるであろう。さらに普遍的であれば、面前の教師や学生やプロジェクトを超えた拡がりでできるものとなる。つまりその場を超えて、離れて、どこかにいってしまうほどのものが、よき議論である。学生自身は取り残されないように頑張らねばならない。
そういう興味からすれば、5人の審査員はどなたも見識と経験の豊かな人なので、各賞はさっさと決めて、学生のプロジェクトにインスパイアされたものを出発点としながら、建築の本質や将来を議論したいと思ってはいる。これは相手がいることなので相談しないとそうはならないのだが。どうなることやら。
嶋﨑礼『ゴシック建築の考古学』を読んだ感想

嶋崎さんからご高著をいただきました。ありがとうございます。
副題「トリフォリウムからみる建築技術史」にあるように、一貫してトリフォリウムに着目し、さまざまな角度から分析し、論じたものである。文献、論文、調査報告書、アーカイブ、現地調査などから得た膨大な情報をてぎわよく整理した力作にして好著である。
このトリフォリウムという断面に注目しつづけたことが決定的な勝因である。評者なりの視点にすぎないが、トリフォリウムは教会建築における身廊と側廊との違いの立ち現れであり、身廊立面においては3層構成であれ4層構成であれ高窓をその下の部位(大アーケードとギャラリ=二階席、後者はないこともある)と区別する帯である。適切な表現かどうか自信はないが、それは一種のバッファである。ゴシックがひとつのシステムであるとすると、それはいくつかの中レベルのサブシステムからなる。それらサブシステムどうしの緩衝地帯であり、それらが出会う場所である。するとこうしたバッファにこそ(サブ)システムの挙動が集中的にあらわれるのである。
同時にそれは高所の狭い通路として使われるから、必然的にそれは「触覚」的体験をもたらす。ということは儀式はやや別として、もうひとつの「生きられたゴシック」を提供する。それは工事中からはじまり、完成しても、用途変更しても変わらない。
この枠組みで著者は、トリフォリウムにおける人と素材の近さにに着目し、足場設置、工事や補修のための通路、石材加工の痕跡(p.95)、作図やサインや落書き(p.101-)、足場固定(p.152-)、工事中断のめやす(p.165)、布や照明の設置(p.212)、見物席(p.216)などのさまざまな具体的な局面を分析してゆく。
身廊からステンドグラスを見上げたり、側廊をめぐりながらさまざまな祭室を鑑賞するのも教会体験である。それらは大きな視距離という前提にたっている。しかし本書は、手に触れる距離にまでゴシックを近づける。トリフォリウムの多くの写真は臨場感溢れている。これまでのゴシック紹介とは、まさに視点が違うのである。この視点はユニークかつ正統的である。
評者としてはこれまでの自身のゴシック体験を反省する機会にもなる。なんでも見てやろう精神からかなりの数の教会建築は見ている。しかし敬して遠ざけ、例外的に塔に登ることはあっても、ほとんどは観光客としてあがめるような見学であった。著者のいう距離の克服にはいたらなかった。
ただ建築史研究の対象としてのゴシックにはよくよく注意すべきことも学んだつもりである。すなわち「ゴシック」の存在を認めない研究者もいる。彼らにとってゴシックは、ヴィオレ=ル=デュクとその追随者が観念的に構築した妄想であり、イル=ド=フランス(パリ地方)における地方建築が普遍的であるとする誇大妄想である、ということになる。評者=日本人としては、両論併記として、ゴシックを信じる研究者、ゴシックを信じない研究者、両者の存在もまた歴史的事実として認め、自身としては方法論的懐疑(どちらの説にも染まらない)とするのである。
これはまさにゴシックの歴史的位置づけに由来する。すなわち事前にマニフェストし、設計図書を作成し、なるだけそのとおりに制作するのが建築家であるとすると、ゴシックの建築家はそれを再現するにじゅうぶんな痕跡を残していない。だから近代人が(日本人が?)期待するイデア論的な構図がえがけない。あるいは歴史的経緯を踏まえていえば、ゴシックとは近代理念を過去に遡及したものであり、より具体的には中世的現実の残像と、19世紀的な理念の複合体である。ゆえにゴシック研究は中世研究であると同時に近代研究でもある。いいかえると、歴史研究で面白いのは研究史そのものなのだが、この構図がいちばん際立つのがゴシックなのである。
著者自身が「補遺『トリフォリウム』、由来不明の言葉」でのべているように、20世紀初頭になってやっとこの用語には現代的意味が与えられた。その用語をフォローしつつ諸例を横断するのは近代的プロセスの典型であろう。
そういう意味で「序章 物質としての大聖堂」は先行研究批判が指向されていて、一定の評価ができるが、比喩的で安易な二元論は退屈であったし、研究者の心意気は好意的にとらえたいが、学術の動向を紹介するためにはどうか。それなら著者がフランスで開催されたシンポジウム「ゴシック建築とは何か?」を紹介(p.23、注29)しているくだりがより貢献できるであろう。それを多様性の指摘で終わるにすぎないなどと切り捨てないで、なぜ集約できないかを考えたほうが生産的であろう。
愚見ではあるが、現代的理念の遡及的適用というゴシックの基本構造があろう。さらに県あるいは地域圏の学界的・文化的な独自性というフランス建築史学(考古学)がどの程度あるかどうか。地域ごとになされた研究を、フランス的レベルでさらにヨーロッパ的レベルでとりまとめねばならないとすれば、そういうプロセスで、ゴシック理念の統一などという荒技が純粋学問的レベルでのみできるとも思えない。
本書は明快であり、豊かであり、大きな貢献であるので評者もつい力がはいってしまうが、最後に期待する4点を述べる。
(1)序章は自身の研究にさきだつ先行研究批判として不可欠ではあるが、まとまりのある論としては短すぎる。次の仕事として19-20世紀におけるゴシック研究の研究史をひとつの精神史として描いてみてはどうだろう。
(2)「トリフォリウムとは何か」(p.8-)と「補遺『トリフォリウム』・・」(p.267-)は本書においては一体化すべきであったろう。
(3)「建設技術史」とするのは過剰な謙遜ではないだろうか。
(4)「見物席」の話は格段に展開できそうである。二階席、身廊などにまで及べば、儀式や万人を受け入れる平時をふくめた使用法の話になり、そもそも教会堂とはなんなのかという論点にまで発展できそうである。
ただそこで注意すべきことに、ゴシック、大聖堂、教会堂というように対象をどう呼ぶかで研究も変わってくるのであるが。
デジタル・ダブルとしてのノートルダム・ド・パリ
11月25日、早稲田大学エクステンションセンターでノートルダム大聖堂について話した。11月30日に文化遺産国際協力コンソーシアム令和6年度シンポジウム「『モニュメント』はいかに保存されたか:ノートルダム大聖堂の災禍からの復興」(甥がきたので中座したが)を拝聴した。ここしばらく大聖堂復興の祝賀ムードである。
大聖堂とは司教区を代表する司教座のある教会堂という教会組織上の概念なのであるが、しだいに都市、国家、そして漠然とした拡がりのある「わたしたち」意識をとりまとめるものとなっている。ノートルダムは、ユゴーの文芸、映画、ミッション系学校、ツーリズムなどにより世界のなにかを代表するものとなっている。つまり大聖堂は理念なのである。
基本的に大聖堂は理念なのだが、フランスの大聖堂理念は、ナポレオンがミラノ大聖堂の完成を命じたときにはじまり、ケルン大聖堂の完成という(ドイツの)国家的イベントを経由して、パリやナントの大聖堂完成(修復)にいたるというのが大きな流れである。これはけっしてぼくの個人的憶測ではない。一級の建築史家があちこちに書いていることである。
ここで大聖堂文芸の俯瞰を、ぜひ!
ユゴー『パリのノートル=ダム』
ユイスマンス『大伽藍』
バタイユ『ランスの大聖堂』
ル・コルビュジエ『伽藍が白かったとき』
ルニオ『19世紀の大聖堂』
悪魔の注釈をすると、ル・コルビュジエもアメリカ的なホワイト美学にそまっていたということである。ちなみにユイスマンス『大伽藍』はシャルトル大聖堂の黒マリアについてあれこれ書いていて面白い。さらにちなみに、ル・コルビュジエはプロテスタント、ユイスマンスはカトリック。しかも後者は信条からカトリック芸術を現代化するための運動をしていた。
ルニオはこれらの大聖堂理念を批判的にいちど俯瞰している。これが翻訳されれば日本人の西洋建築理解は一新されるとおもうのだが。
本題に戻って、ノートルダム修復工事の中間報告として面白いのが、パトリク・ブシュロン『ノートル=ダム・ド・パリ 現場の科学』2022(Patrick Boucheron, Notre-Dame de Parisー la science à l'œuvre, Paris, 2022)である。これを読むと日本的議論がばかばかしくなるし、フランス人専門家たちの高揚も体感できる。
つまり大聖堂はすでに「デジタル・ダブル」である。完全にヴァーチャル化している。今回のノートルダム修復の最新記録によれば、木、石、鉛など多分野の修復専門家は、デジタルデータで再構築されたヴァーチャル大聖堂のなかで活発に共同している。かつて中世の大工、石工、金属工らが現場でそうしたように。専門の報告書を読めば、そういう先端技術者の興奮がつたわってくる。
皮肉なことに火災などの破壊は、新しい真実をつたえ、通説の誤りをおしえてくれる。たとえば木材はしばらく寝かせてから使われるものだし、ノートルダムでもそうであったと思われていた。しかし単純な年輪測定法ですでに、伐採してすぐ使われていたことが判明した(だから今回の修復でもそうしていいのである)。
研究の世界ではよくあることで、研究が進めば真実であったものは嘘であることがわかるし、真実はどんどん書き換えられる。これまでもそうであったし、これからもそうであろう。そのときオーセンティシティにどんな意味があるというのだろうか。東文研のシンポはそんなあたりまえのことをはからずも伝えていた。フランスの修復専門家ははっきり美をオーセンティシティの上位においていたのだし。歴史的価値というのも研究により歴史が更新されれば、つねに変わってゆくものだし。普遍・不変のイデアではないのである。
さらに典型的な日本的?発想、つまり「いつの時代の状態に戻すか」などというのも愚であろう。そもそもある時代の真実は、まだわかっていない。破壊でもすればもっとわかるかもしれないが、なのである。
パリのノートルダム大聖堂について
講義「パリのノートル=ダム大聖堂」@早稲田大学エクステンションセンター、ということで90分しゃべってきた。
ぼくは古典主義建築をずっと研究してきた。大聖堂の専門家とは言いがたい。しかしすくなくとも2010年以降の大聖堂にかんするフランスの研究成果は、それまでとは異次元の高みにあることには気づいていた。
つまりエルランド=ブランダンブールやミシェル・ルモワンンヌらの古い世代は様式や構造や間取りという狭義の建築に話を限定してきた。オーソドックスなしかし古い建築史である。
しかし宗教学のルネ・レモン、建築史学のアントワーヌ・ピコン、古文書学のジャン=ミシェル・ルニオらは新しい地平を切り開いている。建築的な縛りをとりのぞいて、建築を文化、政治、歴史など多角的な視点から解釈し、壮大な精神史にまで高めている。3者に共通するのは、革命以降のフランスの葛藤、すなわち理性/宗教、啓蒙主義/迷信、共和主義/カトリック王党派という二元論的対立こそが、革命以降の2世紀以上にわたるフランス建築史の骨格であるということだ。フランスはいまだに革命を生きているのである。
今回ぼくは話の骨格として、ヴェロニク・ジュルロ編『パリのノートルダム1163-2013;コレージュ・ド・ベルナルダンで開催された学術シンポジウム議事録』(2012)をとりあげた。そのなかでコンサイスな発表5点に注目した。
(1)ニコル・ベリウ『モリス・ド・シュリとユード・ド・シュリとパリ大聖堂』
(2)ダニ・サンドロン『ノートルダム、司教区の建築にして王室の建築』
(3)ピエール・ゴンベール『ノアイユ枢機卿とノートルダム』
(4)ジャン=ミシェル・ルニオ『ノートルダム、国家宗教の神殿(19世紀)』
(5)ジェラール・ペルチエ『大聖堂のなかのジャン=マリ・ルスティゲ枢機卿(1981-2005)』
(1)~(3)は王国時代を扱っている。(4)は革命からほぼWWIIまで、(5)はおもに戦後である。
王国時代は、もちろんすでに王室とノートルダム大聖堂は密接な関係にあった。王が司教を選んだこともあった。ときに司教は宮廷人であった。国王が十字軍遠征にでるときは行政の一部を司教が担当した。王が病気になれば快癒を神に祈ってもらった。王室のだれかが亡くなれば大聖堂に埋葬された。
しかし、国王や王室関係者には私人と公人という区別はないのだが、これらの関係はどうも私人としてだと考えると腑に落ちる。
そういう感想をもっていたので、ルニオの主張は魅力的に感じられた。すなわち「革命からはじめて、ノートルダム大聖堂はフランス史のなかに登場してきた。儀礼はランス、サン=ドニ、サント=シャペルに限定されていたが、ノートルダムにはいってきた」というのである。きっかけはナポレオンの戴冠であり、ノートルダムはコンコルダ体制において「公権力」と「カトリック」が融合する神殿となった、と彼は述べる。
そこでぼくは大聖堂でなされたさまざまな儀式を描いた絵画資料を、17世紀から現代まで、集めて、パノラミックに提示してみた。軍人の葬儀。王族の葬儀。王族の後継者誕生の感謝。革命からは国民軍の集結。国民軍旗の祝福。理性祭典。聖職者宣誓。ナポレオン戴冠。市民宣誓。Berry公とキャロリヌ・デ・ドゥ=シシリの結婚式。ボルドー公の壮麗な洗礼式。四旬節講演会。パリ伯(ルイ=フィリップの孫)の洗礼。セバストポル陥落の恩寵。アドルフ・ティエール大統領の葬儀。Carnot大統領の葬儀。ジャンヌダルクの列福。WWI休戦。 Foch元帥の葬儀。司祭の叙任式。ドゴール将軍によるパリ解放後の訪問。Juin元帥葬儀。ドゴール将軍のための《レクイエム》。Feltin枢機卿(パリ大司教1949-1966)の葬儀。クリスマ(キリストを意味する記号)のミサ。パリ解放60周年を祝うミサ。
こうして並べると、なるほど、王国時代の国王の個人的な大聖堂ということから、革命以降の、戦勝・戦没者葬儀なとという国家的事件をうけとめる国家神殿への移行、というのはたしかに感じられる。
重要なのことにルニオは『19世紀の大聖堂』で19世紀の「理念としての」大聖堂を述べていた。ここでも、まずナポレオンがミラノ大聖堂修復を命じたこと、解放後のドイツにおいてケルン大聖堂の完成が、ドイツ国家構築とパラレルに理想化されたこと、そうした思想的影響下に、パリのノートルダム、ナント大聖堂が修復され完成されたこと、を指摘している。
こうした理念としての大聖堂を頭にいれると、ユゴー(パリ)、ユイスマンス(シャルトル)、バタイユ(ランス)、ル・コルビュジエ(伽藍が白かったとき)など連綿とつづく大聖堂文芸の系譜もまた違った目で見ることができよう。
ヨーロッパ諸国は日本からみると国民国家として安定しているように見える。しかしフランス人民がフランス国民になったのは本格的には第3共和政からであろう。そこでは国家に接収されてフレキシブルなホールとなったパリ大聖堂において、さまざまな偉人の葬儀、戦勝、国家的危機の克服が儀式となり、国民の共通の体験として蓄積された。それが200年以上に及ぶ歴史的な成果となったのであろう。共和国憲法に「不可分の共和国」であると書くほど、分断の危機はつねにあった。しかし国民的な共通体験の歴史的蓄積のなかで、新たな意義ができたように感じられる。
今、パリ大聖堂についてのシンポジウムなど多くのイベントが開催されている。ぼくはここ10年ほどの最新成果を踏まえて、大聖堂の新しい意味を考えてみた。