再録・葉祥栄論その4---建築のリアリティへのたゆみない探求にたいして

*某賞にかんしての推薦書(2009)として書いた。
 葉祥栄は福岡を基盤としつつも、つねに建築への普遍的なアプローチをつづけ、そのことで全国的に認知され、そして国際的に高い評価を得ている創造的な建築家である。
 彼は慶応義塾大学経済学部を卒業ののち、アメリカのウィッテンバーグ大学でインテリアを学んだ。1970年、福岡市内に葉デザイン事務所を設立し、福岡市内外、小国市などで多くの建築作品をてがけてきた。屋根と壁という概念を廃したガラスの覆いである《コーヒーハウスインゴット》、間伐材を使った大ドーム構造の《小国ドーム》、ワイヤーとガラスを布のようにつかった《グラスステーション》、アメーバのようなスチール立体トラス屋根の《ふるさとパレス ギャラクシー富山》など。それらにたいし毎日デザイン賞(1983)、日本建築家協会新人賞(同)、日本建築学会賞(1989)などが与えられた。《同潤会青山アパート再開発計画プロポーザル》は、計画で終わったものの、地勢、都市組織、内部と外部を深く分析した、都市と建築を横断するすぐれたプロジェクトであった。

 教育者としも経験豊かであり、ニューヨークのコロンビア大学や、さらに1996年から慶応義塾大学において教授として建築を教えてきた。
その作品と理念はメディアをとおして世に広まっている。日本の建築雑誌としては『SD』誌の特集「葉祥栄:カリステニクス 柔らかい建築のための12の柔軟体操」(1997年1月号)など、数回の特集が組まれてきた。さらに海外のメディアがより頻繁に紹介してきた。Anthony Iannacci and Shoei Yoh, Shoei Yoh: In Response to Natural Phenomena, l'ArcaEdizioni, 1997; Nancy Moore Bess, Bamboo in Japan, Kodansha International, 2001; Charles Jencks, The New Paradigm in Architecture: The Language of Postmodernism, Yale University Press, 2002; Greg Lynn, Folding in Architecture (Architectural Design Profile), Academy Press, 2004などはその一部に過ぎない。彼の建築とその方法論は、論理性をより重視する海外のメディアや評論において、より高く評価されている。建築評論家グレッグ・リンは、葉の建築を評して、初期のプラトン的純粋形態と後期の融通無碍な建築を区別している。しかしそれは矛盾ではなく、自然の法則性を、最終的なマクロな見え方においてとらえるか、そうではなく細胞や粒子といったミクロな次元で把握しようとするか、の違いであろう。
 葉の建築は、モダンなものと日本的なものの両立、光や風といった指標のたてかた、ガラスや竹や鉄といった素材の特性への理解、竹や間伐材を使ったサステイナブルな構造、といった点において際立っている。しかし葉という建築家の本質は別の点にあるであって、それはリアリティということである。

 建築が本来的にある理想の構築である以上、それはたとえば国家、社会、共同体、家族、ある主義などといった、いわゆる自然状態にはないもの、構想された制度、理想、夢などに立脚する。それがゆえにその建築は一種の「虚構」として構想されることになる。

 葉は、他の建築家とはまったく異なり、けっしてこうしたアプローチをとらない。彼は虚構ではなく「リアル」から出発する。光、風、重力、素材といったものが重要であるのは、そうした意味においてである。光を一様にとりいれたり、光によって空間が格子状に描かれうることを示すことは、彼にとってのリアルである。間伐材をつなぎあわせた長大なアーチが重力でたわみながらある位置でおちついたり、格子状に編んだ竹が重力によってたわみ、ある位置で静止すること、立体格子の大屋根がそれにかかる応力にしたがって寸法を変えること、は「リアル」なのである。
 さらにそれは、かつてのリアリズムの素朴な次元をはるかに超えたものでもある。ちょうど雨、風、雲といった気象現象は、実体であるというよりはむしろ、温度、湿度、気圧などさまざまな指標の値の組合せによって最終的に決まるひとつの「あらわれ」であるよう。葉の建築は、多様なものの統一として、ひとつのリアルで美しいあらわれである。水蒸気が雪に変容するときのような「結晶」と言い換えてもよいであろう。
 自然のように法則に従いつつ自由で多様であるこうした建築はリアルであり、真摯である。そして虚構に依拠しないであくまでリアルなものを尊重しようとするひとつの真摯な哲学が、人柄にも、言葉にも、多くの優れた作品にも貫徹していることに感銘をうける。そのとき、それらの蓄積された厚みに敬意をいだくとき、西日本文化賞にふさわしい建築家であることを謹んで推薦することに、まったく躊躇しないのである。

 

再録・葉祥栄論その3---SD誌1997年1月号掲載「葉祥栄にとってのリアリティ」

 かつて葉は、自分の建築にふれながら、もはや非建築であることにしか可能性はないといった意味のことを語ったことがあった。たしかに彼の建築は、一見オーソドックスな合理主義的建築によう見えて、なにか独特の雰囲気を醸し出している。例えばガラスという素材の可能性の追及こそが目的であるかのうような「インゴット」は、被膜のみに存在意義を見いだしている点で、それまでの建築とは異なるのかもしれない。しかし彼はハイテク素材にのみ注目するのではない。竹や間伐材を、その土地の素材であるという理由で、しかも新たな手法で使い、民芸調にもピクチャレスクにもならない。
 考えてみれば、葉は逆説的な建築家である。キューブ、三角柱、三角錐などの純粋形態を使ういっぽうで、内住等では従来の概念では有機的建築として分類されるような造形をする。キューブなどの観念的な形態をつかうのは、むしろ光や風といった現象的なものを操作するためである。

 彼はリアリティを求める。しかし彼はリアリズムの建築家なのだろうか。歴史、宗教、神話、偉人を描くことこそ芸術であるという絵画観に対し、市井の人々のそれまで描く価値のないと思われていた生活を描くことが19世紀的リアリズムであるとするなら、彼のアプローチは文化という上部構造の虚構の部分を認めないという点ではリアリズムかもしれない。しかしそのことを指摘しても、なにか実質的なことを分析したことにはならない。というのは、誰しも彼なりのリアリズムをもっているからだ。しかし、そのリアリズムが向かう対象は異なる。だから葉が何にリアリティを見いだすかが、ここでは問題だ。
 光格子の家や、日時計の家は光がテーマである。しかし光を主題とする建築は別に新しいものではない。ロマネスク教会の肉厚の壁に穿たれた窓から入る光は石という物質の素材性を強調し、ゴシック教会のステンドグラスは地上に天上の世界を存在させ、草庵茶室の下地窓は自然現象として変化してゆく光の表情を室内に伝える。しかし葉のこれらの住宅における光は、単に自然を象徴するためのものではないし、何かを照らし、あらわにするための光でもない。日時計の家では、ある時刻はあるスリットから、次の時刻には次のスリットから光がはいる。光格子の家では、キュービックな室内の各面から侵入する光の強さが比較され判明するようになっている。そこでは光そのものが主題であり、建築は一種の分析装置となっている。光が、別のある対象を明らかにするための媒介としてではなく、プリズムによって光を要素に分解し分析するように、光そのものがあるリアルな対象として葉の前に存在する。そうした、葉のリアリティとはなにか。

 あるいは太閤山ランド展望台の上から、環境芸術としての人工の霧を見る時、そこには景観としての霧というフィルターを通して自然を眺めるという伝統的な美意識よりも、自然な霧も人工的なそれも、少なくともミクロにみれば同じ現象なのだという、高揚しながらも冷静なある美意識が見られる。こうした感受性をもつ葉にとってリアリティとは何だろう。
 伝統的な、あるいは少なくともヨーロッパ的な建築観のなかでは、建築は支えられるものと支えられるものの対話である、という考え方が一般的であった。それは古代の神殿における柱=梁構造であれ、ゴシック建築におけるヴォールトとバットレスの関係であれ、こうした2分法は生きていた。建築の本質は柱か壁かという議論が、ルネサンスにもあったし18世紀のいわゆる啓蒙主義の時代のヨーロッパにもあった。荷重を支える柱と、間取りすなわち機能にとって重要な壁のどちらが建築にとって本質的か、という議論だが、しかしそこでも支持/被支持という構図が下敷きにされている。
 一方、西洋建築では、支持される方の屋根構造の特徴は、その強い規則性あるいは幾何学性である。西洋建築のドームは、もともと組積造の原理でできている。鉄筋コンクリートとは違って、補強材としての鉄は部分的あるいは例外的にしか使われない。従って球形や円形などのように応力を計算しやすく構造的に有利な形態が選ばれる。その結果、支持/被支持という対称的な構図によって、平面もまたこうした原理に支配されて、円形や正方形といった幾何学が支配的になる。そうした伝統はコンクリートのシェル構造で大スパンの橋やホールを多く建設した20世紀の大建築家ネルヴィのなかにも生きている。彼は、建築史家ギーディオンによれば、この新しい構造の可能性を最大限にいかしたとされる。しかし彼もやはり幾何学的な構成という伝統を引き継いでおり、調和は計られているとはいえ、自然のなかで人工的で幾何学的な造形物を対比的に使っている。
 ヴィオレ=ル=デュクは建築を個々の石と、石から石に伝えられる応力に還元した。構造体に仮想の断面を想定し、その断面に作用する応力を計算するのが現代の構造力学の基本的な考え方だとすれば、それもやはり支持/被支持という古典的な哲学の延長線上にある。
葉の建築に、こうした境界面はない。むしろ異なる素材が出会う場所には、両者を緩衝しつなぐための第3の素材が強調される。エポキシや、シリコンがそうである。こうした素材が、欠如を補うためではなく、まさに異質なものの出会いのために特別な意味づけがなされる。そうした意識にとってのリアリティとはなにか。
 筑穂町内野の高齢者生活福祉センター+内野児童館と、内住コミュニティセンターは、屋根の独特の形態が特徴的である。鉄筋コンクリートによる実に自由で変化に富んだ曲面でできたシェル構造の曲面屋根だが、それは西洋建築に伝統的に見られるボールトあるいはドームとは著しく異なっている。つまり葉のこうした構造は支持/被支持という断面はなく、それ自身を支える構造である。そこでは支え、支えられるという二分法は存在しないし、曲面シェルはアドルフ・ロースが建築の根本としてとらえた布による被覆のようなものであり、それゆえの襞が内住コミュニティセンターに表われている、とさえ考えることが可能である。
 景観にとっては、屋根と床は、柱や壁以上に重要である。つまり、屋根は空との、床は大地との関係を示しているからである。建築は、空と大地の間に位置し、それらの力を受けながらも、そうした諸力をやりすごし、あるいはそれらを変換し操作し、両者の間にうまく調和的に介在してゆく。そう建築をとらえれば、それはまさに人間の営みそのものである。

 一方では、葉の建築では、床が自己主張しない。地面に密接する形式の建築では、大地がそのまま床となり、起伏に富んだ土地に建設される建築では、床は逆に軽々と宙に舞い、いずれにしても床は堅牢な人工性は主張しない。
西洋建築には床は重要ではないかと思われるかもしれないが、「基壇」は造形上、人工的な構築物を周辺から際立たせるためには欠かせない要素である。それは環境や自然に対して対峙しようとする。
 内野の建物は老人の足元を考慮してバリアフリーであり、徹底して段差を排除している。中庭の芝生も、縁側も、内部の床もすべて同じレヴェルにある。外周はすべてガラスであるから、床は大地のそのままの延長であり、その結果、これは民家における土間の開放性に似たものとなった。内住でも、縄文時代の縦穴住居のように、敷地はすこし盛り上がった場所にあるが、逆に、内部の床はすこし凹んでいる。
 葉の建築のあるものは、屋根と大地からなる縄文的な造形である。南方的な高床ではなく、明らかに竪穴住居を髣髴とさせる。そしてこうした古代人にとって屋根を架けることが最も重要なテーマであった。こうした建物の屋根は、大地の上に漂う雲か霧のようだ。あるいは林か竹薮に例えたほうが適切であろう。コンクリートの柱は木や竹の幹を、屋根は茂った枝と葉を象徴する。村の人々は、この木陰で集う。
 松下クリニック、海と空の間のガラスの家などに見られる床は、意図的に構築的な強さを与えられていない。それはもちろん西洋建築におけるピアノ・ノビレでもないし、ピロティによって力強く支えられたル・コルビュジエの床でもない。それはまるで、自動車の床が地上数10センチを滑空し、飛行機の床が空中高く舞い上がる一瞬を凍らせたようなものだ。それは確固たる存在でありながら、建築としての特権は意図的にはく奪されている。
 しかし縄文的なものと弥生的なものの対比がここで重要なのではない。西洋建築で特徴的な、人工と自然、内部と外部といった二分法が、ここでは極力回避されている。ここではそのことがコンピューターを使った合理主義的方法によって達成されていることが興味深い。建築構造は静力学の問題だが、この力学は人工物のみならず自然現象をも支配しているはずであった。こうした意識にとってのリアリティとはなにか、再び問いかけて見たいみたい。

 内住や内野の建築は、平面がまず自由である。内野では、集会室、個室、食堂、児童図書館といった多くの機能が比較的自由に、敷地の形状に従ってのびのびと設定されている。次に屋根構造が決定されるが、支柱の位置もまちまちなのでコンピューターによる構造計算が不可欠である。しかしその結果、屋根の形は自由な平面を反映した、変化に富んだものになる。平面は比較的整形の小田原総合体育館やふるさとパレスギャラクシーホールでも、その屋根の断面をみれば、屋根から見れば任意に配置された支柱に適合して、屋根が様々な厚みをもっていることがわかる。

 これは公園などの設計で、道等をあらかじめ図面の上で決定するのではなく、自然にできた獣道を後から整備して道とするのと少し似ている。つまりあるアプリオリ幾何学性から始めるのではなく、手続きは徹底して合理的だが、それ故に逆に、最初の偶然性がうまく表現のなかに反映される。それは空気中の水蒸気が結露して微小な水滴となって空中のなかである平衡状態を発見し、雲として自己実現するのと似ている。
 葉は自分の作品を説明するというスタイルでしか思想を表明しない。だから彼にとってリアリティとはなにかということは、まだ体系的には説明されていない。しかし逆に、彼がどんな方法論を採用しなかったかを見れば、少なくとも彼が何にリアリティを感じていなかったかは判明するだろうし、そこから彼にとってのリアリティが垣間見えるのではないか。
彼が採用してこなかったのは、西洋的な二分法のそれである。支持と被支持、内部と外部、大地と床、人工と自然。それらの間に境界線を引かないために、媒介的な素材、平衡点、襞といった概念が浮上する。伝統的な二分法は、世界を二領域に分割したが、その両者の一致こそがリアリティを保証すると考えられてきた。つまりリアリティというのはそもそも世界の二分法の結果として生まれた概念のようなものだが、葉は、出発点において意図的に分断したものを最終的に一致させようとするのではなく、こうした構図そのものを始めから見ない。だから彼のリアリズムは今は迷宮なのであり、それ故にこそ葉にとってのリアリティは何かを問う意義がある。こうした彼の方法論に立脚したリアリティとはいかなるものかは、これから徐々に明らかにされるであろう。しかしどのみち彼にとって建築は、内部の囲い込みではなく、環境全体の再秩序化なのである。

 

再録・葉祥栄論その2---堀川病院サンダイヤルについて

*この小論は毎日新聞西日本版1997年2月14日掲載、見出しは「建築のバリアフリー ---知覚への還元と技術・素材の把握こそ」

 「バリアフリー」が昨今、よく言及される。一般的な意味では、それは公共性のある建築や環境において、身障者にとって邪魔になる段差等をなくすことを意味している。日本はこれから高齢化社会を迎えるし、またそもそも社会は様々な異質な人間を許容する開かれたものであるべきである以上、この概念はますます重要になろう。
 ところで素朴に解釈すれば「バリアフリーな建築」は実は矛盾する概念である。なぜなら「建築」とは根本的にバリアーを意味するからである。建物は最小限雨露をしのがなくてはならないということは、雨に対するバリアでなくてはならない、ということである。
  だから建築においては、このバリアは多様であり重層的であり、いかなる要素をいかなるレベルで受入れ、あるいは拒否するかが問われている。問いも回答も実に複雑で繊細である。
葉祥栄による堀川病院サンダイヤル(久留米市)は巨大なガラスの風船のようなアトリウムが印象的である。

 これは老人介護のための施設であるが、御老人たちを閉じ込めるのではなく、広々とした開放的な空間で介護するのが望ましと同時に、施設の性格上、プライバシーも守らなければならない。従って非常に広く開放的な「アトリウム」がいわば覆いのついた中庭あるいは広場として建設された。天井も壁もガラスであり、光は遮られない。しかしプライバイーを守るため、側面はすりガラスで、視線に対してはバリアとなっている。
 このアトリウムは、構造は全部外部に露出されており、内部からはほとんど意識されない。つまりここでも、光は通すが、視覚的に望ましくないものは見せないという選択的なバリアフリーである。ゴシック教会建築の、外部の控壁や飛梁と、内部から見たステンドグラスの関係にたとえてよいだろう。
 手塚貴晴と手塚由比による副島病院(佐賀市)は、亜鉛メッキ鋼の巨大なルーバーが印象的である。ここでもバリアのありようが繊細に検討されている。入り口から奥まで段差がないのは上記のサンダイヤルと同様である。2層吹き抜けの待合室は、外部の木のデッキや庭園と一体化し、非常に明るく開放的で、心理的なバリアも完全に除去されている。
 南面する各病室も、南側は腰壁も子壁もなく全面ガラスであり、外の佐賀市の都市風景が見える。空や建物だけでなく、道を行き交う人々も見える。変化の少ない病室内部の生活にとって、動くものの光景は貴重である。これは入院患者を視覚的にも社会から阻害させないようにしようという、やはり心理的バリアフリーである。一方、日差しを避けるために前述のルーバーが設けられたが、これは太陽光線を調節するバリアである。
 また北側の広い都市計画道路に面しては、設備機械類を配置して、一種の防音壁の役目をさせているが、これは音に対するバリア。この部分は構造的には病室等から縁が切られており、機械の振動が伝わらないようにしているという意味でも、バリアである。
 建築は本質的にバリアだが、なにを遮り、なにを通過させるかという、選択的なバリアである。そこで浮上しているのは、ものとして「存在」する建築よりも、そうした物的な枠組みのなかで人間がいかなる環境を「知覚」するのかに注目する、極めて鋭敏な建築家の感性である。光、視線、音、気配、温度、そうした知覚的な世界こそを構築しようという建築家の意志である。こうした目的の建築は、それまでとは必然的に異なる。
 こうした建築をつくる葉にしろ手塚にしろ、この文脈では、実は彼らの方法論自体が別のバリアフリーを目指している。
 例えば葉は、かつて非建築を目指すしかないと宣言し、ガラスで覆われた水泡のような「インゴット」ではガラス、小国ドームでは軽い木造ドーム、筑穂町内野の高齢者生活福祉センター+ 内野児童館では造形の手がかりとしての竹、等の素材の可能性を徹底的に追求した。
 手塚もイギリスのハイテク建築家リチャード・ロジャースの事務所で修業した。しかし彼らはスタイルとしてのハイテクではなく、現代の工業技術で製造された様々な素材の可能性を発揮させることを追求している。
 そして彼らの建築が、方法論的な新しさを感じさせ、決して「ハイテク風」に堕落しないのは、視覚や聴覚や触覚といった人間の基本的な知覚という根元と、現代の素材や技術そのものに内在する可能性を、より直接的な相関関係の中で把握し、造形のさまざまなレベルで熟慮の末の決定や選択をしているからである。
 もっとも葉の場合は非建築宣言に見られるように、それは戦いであり、時には理解されていないと感じることもあった。一方、若い世代の手塚は、それはすでに出発点であり、社会もすでに受け入れる用意ができつつあった、という違いはある。葉が戦って築いたプラットフォームの上で、若い手塚が出発したという世代関係はある。しかし本質的には、両者は同じ根源的なものをめざしている。
  その根源とは、建築を知覚の問題に還元し、技術をより根本的に把握して使うことで、芸術としての建築/技術的産物でしかない建物、の区別が廃棄されていることである。彼ら以外では妹島和世らの建築に顕著である。ハイアート/ロウアートという美学上のバリアフリーが実現されているのである。

再録・葉祥栄論その1---内野高齢者生活福祉センターなどについて

*この小論は毎日新聞西日本版1995年7月28日掲載、見出しは「葉祥栄---建築の可能性 屋根と大地の縄文的な造形」

 建築の本質は柱か壁かという議論がかつてヨーロッパにはあった。18 世紀のいわゆる啓蒙主義の時代である。荷重を支える柱と、間取りすなわち機能にとって重要な壁のどちらが建築にとって本質的か、という議論である。
 しかし景観にとっては、屋根と床はそれよりも大切ではないか。つまり、屋根は空との、床は大地との関係を示している。従ってそれらは柱や壁より重要である。建築は、空と大地の間に位置し、それらの力を受けながらも、そうした諸力をやりすごし、あるいはそれらを変換し操作し、両者の間にうまく調和的に介在してゆく。そう建築をとらえれば、それはまさに人間の営みそのものではないか。
 葉祥栄の最近の作品、筑穂町内野の高齢者生活福祉センター+内野児童館と、内住コミュニティセンターを見てそう感じた。

 これらの作品は、その屋根の独特の形態が特徴的である。実に自由で変化に富んだ曲面でできている。鉄筋コンクリートによるシェル構造の曲面屋根だが、それは西洋建築に伝統的に見られるボールトあるいはドームとは著しく異なっている。
 西洋建築のそうした屋根構造の特徴は、その強い規則性あるいは幾何学性である。西洋のドームは、もともと組積造の原理でできている。鉄筋コンクリートとは違って、補強材としての鉄は部分的あるいは例外的にしか使われない。従って球形や円形などのように応力を計算しやすく構造的に有利な形態が選ばれる。その結果、平面もこうした原理に支配されて、円形や正方形といった幾何学が支配的になる。またその幾何学性がヨーロッパ建築の魅力でもあるのだが。
 そうした伝統はコンクリートのシェル構造で大スパンの橋やホールを多く建設した20 世紀の大建築家ネルヴィのなかにも生きている。彼は、建築史家ギーディオンによれば、この新しい構造の可能性を最大限にいかしたとされる。しかし彼もやはり幾何学的な構成という伝統を引き継いでおり、調和は計られているとはいえ、自然のなかで人工的で幾何学的な造形物を対比的に使っている。
 葉の建築は、平面がまず自由である。内野では、集会室、個室、食堂、児童図書館といった多くの機能が比較的自由に、敷地の形状に従ってのびのびと設定されている。次に屋根構造が決定されるが、支柱の位置もまちまちなのでコンピューターによる構造計算が不可欠である。しかしその結果、屋根の形は自由な平面を反映した、変化に富んだものになる。
 これは公園などの設計で、道等をあらかじめ図面の上で決定するのではなく、自然にできた獣道を後から整備して道とするのと少し似ている。つまりあるアプリオリ幾何学性から始めるのではなく、手続きは徹底して合理的だが、それ故に逆に、最初の偶然性がうまく表現のなかに反映される。その結果、客観的だが変化に富んだ屋根ができた。
 内野の建物は、利用者である老人の足元を配慮して、徹底して段差を排除している。中庭の芝生も、縁側も、内部の床もすべて同じ高さにある。外周はすべてガラスであるから、床は大地のそのままの延長なのである。その結果、これは民家における土間の開放性に似たものとなった。屋根は大地の上に漂う雲か霧のようだ。あるいは林か竹薮に例えたほうが適切であろう。コンクリートの柱は木や竹の幹を、屋根は茂った枝と葉を象徴する。村の人々は、この木陰で自由に集う。
 内住は、保育所のような施設として使われているが、床レベルはここでは外と同じではない。敷地はすこし盛り上がった場所にあるが、逆に、内部の床はすこし凹んでいる。屋根は襞のある複雑な形状だが、大まかにいえば円錐形をしており、一番高い部分が水平に切りとられ、天窓になっている。私にはそれが竪穴住居のように思われた。
 やはり偶然性の面白さと合理性を両立させたこの屋根の形態が、山あいの地形に馴染んでいるのは、床を地面より低くして自己主張させていないことが効果的ではないかと思っている。
西洋建築には床は重要ではないかと思われるかもしれないが、「基壇」は造形上、人工的な構築物を周辺から際立たせるためには欠かせない要素である。それは環境や自然に対して対峙しようとする。
 葉の建築は、屋根と大地からなる縄文的な造形である。南方的な高床ではなく、明らかに竪穴住居を髣髴とさせる。そしてこうした古代人にとって屋根を架けることが最も重要なテーマであった。
 とはいえ、もちろん彼の建築は、歴史的な形態を単純に再現する民芸調の方法によってできているのではない。自然との関わりあい方が根源的なのであって、その根源性において古代と繋がるのである。
 ここではそれがコンピューターを使った合理主義的方法によって生まれることが興味深い。建築構造は静力学の問題だが、この力学は人工物のみならず自然現象をも支配しているはずである。葉祥栄の建築はこうした単純な事実を私たちに改めて気づかせるとともに、私たちが気がつかなかった建築の可能性を開こうとしている。

ディオゴ・セイシャス・ロペス『メランコリーと建築』を読んだ感想

監修の片桐悠自さんから『メランコリーと建築』を送っていただきました(訳は服部さおりさん、佐伯達也さん)。ありがとうございます。
 ポルトガルの建築家であったディオゴ・セイシャス・ロペス(1972-2016)によるアルド・ロッシ論である。
 すでに20世紀の思い出というべきか。アルド・ロッシは故磯崎新さんと同年生まれである。ぼくからはふたまわり年上だが、同時代人であったといえなくもない。福岡のイル・パラッツォではささやかなパーティを開催したこともあった。
 本書はよく文献にあたっていて、かならずしも主観的、個人的な論考ではなく、20世紀西洋における研究史をよく点検したうえで、それとの整合性、そこからの距離と個性化を的確に計った充実した叙述である。著者はすでに故人なのだが、20世紀の巨匠を追跡するそのスタディが、その巨匠よりもうまく20世紀を語っているようにも思える。ロッシをよりよく理解するというよりも、ロッシのなにに注目し、20世紀の概念遺産のなかからなにを選んで枠組みを構築したか。そのロペスの研究と思索そのものを追体験することが、まさにぼくにとって20世紀の追憶であり、追体験となりうるのである。
(1)「メランコリー」について
 まず「メランコリー」ときいてウィットカウアの『数奇な芸術家たち―土星のもとに生まれて』原著1963、邦訳1969)をただちに思い出さない研究者はかなりモグリであろう。70年代末に建築史を志したぼくにとり、必読のアイテムであった。あまりに昔すぎて記憶も定かではないくらいである。もちろんパノフスキーはかなりはやく共著『デューラーメランコリアI 起源と類型の一史的考察』(1923)を、やがて『土星とメランコリー』(原著1964、邦訳1991)を出していた。パノフスキーかウィットカウアかどちらが主導的であったかは別として、20世紀美術史のKWがこのように制作されていたわけだ。
 ちなみにバロックマニエリスムなど19世紀美術史学を継承しているかのような概念ツールもまた、今日からみれば20世紀のもののように思える。
 それらを俯瞰して、20世紀が用意した概念ツールのセットなどというものを想像してみる。バロックマニエリスム新古典主義はいちおう様式概念であろう。もっとも「マニエリスム」については疑わしい。ペヴスナーでさえ、それは様式というより時代の気分のようなものと説明している。だから「メランコリー」もいちおう、様式ではなく、思想でもなく、むしろ時代の気分のようなものだとも想像できる。ぼくはむしろ積極的に、芸術家・建築家の心理、精神状態であろうと思う。ややこしいことだが、では厳密に、心、魂、精神・・・などのいずれの状態を示していると仮定できるのだろうか。ここで「心理」といったのは、今日の心理学が確立されたもの20世紀にはいってからだからである。
 これはたんに用語の問題なのではない。まさに20世紀の歴史観の問題なのである。
 経緯を推測するために補助線を引いておこう。前述のパノフスキーは同時期に『イデア』 (原著1924;邦訳1982, 2004)を書き、「イデア」の人間化を指摘していた。つまりプラトンにおいては天上にあったイデアは、古代末、中世、ルネサンス、近代になるにしたがって地上に降りてきて、天才芸術家に宿るものとなった。私見によればパノフスキーの立論は、近代の厳しい主客二元論と、カントが主観を支配者とする美学を確立したことに、正確に対応している。
 それはともかくロペスは、メランコリーという「この気質を正当化する根拠がついに神々や星から切り離されたとき、それは人間の意識のうちに場所を得た」(p.21)と述べるとき、パノフスキーイデア論のために使った構図をまったく正確に借用しているのである。イデアとまったく同じくメランコリーも人間化したのであった。
 ただそれをもって、ぼくは、ロペスがやはりワールブルク学派の系統かなどと党派性をいいたいのではない。それが20世紀における概念ツールを制作するためのメカニズムであったのであろう、ということだ。

(2)我田引水、拙著『建築の聖なるもの』などと比べてみる
 『メランコリーと建築』は一種の精神史である。だからロペスには共感をいだくし、ぼくと同じ系統の研究者であるような印象をもつ。
 ところで一般的に精神史は、その精神を代表させる概念なりKWがないとどうも描けない。すると中心となる言葉がないと叙述できない。すると書きようによっては言葉を主人公とする物語となる。
 エゴサーチにおける近親性相関図のように、主人公あるいは「わたし」がかわると、組立てはがらりと変わる。こうしたKWは取り扱い厳重注意である。ときに書き手もだまされることもある。しかし通史をいっきに書き換えるパワーもある。
 そして書くことの戦略性からいって「メランコリー」のインパクトはどう評価できるのだろう。たとえば心理学の近代性をいったのだが、20世紀人の全体的な精神の基調がまさにメランコリーであったなどという心理学の通説でもあれば、かなり普遍的な論が構築できそうだ。社会学、全般的な文化論、批評、文芸などとの相関性もどの程度だろうか。つまり再解釈された「メランコリー」そのものの現代性、歴史性、20世紀性である。ぼくはそういう専門家ではないが、まあそこそこであろうという見立てである。監訳者たちがこの翻訳をより生かそうとおもえば、そういう方面でリサーチもすべきであろう(すでにしているかもしれない)。
 そこで我田引水だが「聖なるもの」は、19世紀末から20世紀初頭にかけて現代的な新しい意味合いをもって再登場した、宗教学、哲学、思想、社会学など諸分野を横断するきわめてトランスディシプリナリーな概念であることは、その出自から保証されている。だから建築の課題として引き受けることで、諸分野に開かれた研究としうるのである。これはたんに研究評価やましてや文献の売れ行きのことではない。建築をとおして時代をどう背負ってみてみるかという志のそれである。ぼくが構想した研究の戦略性なのであった。
 脱線するとガルジャーニ『レム・コールハースOMA 驚異の構築』もまた、「驚異」という伝統的な概念をリユースして建築家を論じ直した好例であるといえよう。
 俯瞰すれば、20世紀が提示したさまざまな概念どうしは、まだまだ多くの組合せができそうである。そのなかからまったく新しいビジョンも描けよう。いわば20世紀精神史の可能性といったところだが、内向的にならないように配慮しさえすれば、多産な方法論となるであろう。建築の評論や批評に関心をもたれてるむきには、ぜひ一考してほしいアプローチである。

(3)アンソニー・ヴィドラーとの比較
 ところで、じつは一読したときの感想は、アンソニー・ヴィドラーの研究に似ているなあ、であった。ヴィドラーはフロイト精神分析を応用して、とくに「不気味なもの」の概念などを使い、現代の建築や都市を神経症のあらわれとして描いた。碩学の悪口をいうのではないが、ヴィドラーの叙述に説得力があるのはやはりフロイト精神分析論の基本的なストラクチュアがよくできているからであろう。またフロイトは多様に利用できるよう、さまざまな膨大な論を残しているので、引用しがいがあるのである。
 ところで本書第一章「メランコリーと建築」はそのような理論的基礎について述べている。そこではまさにフロイト「喪とメランコリー」(p.67-)を引用している。「メランコリーは、何かしらが失われたという認識から生じる」(p.68)とすることで、ロッシの核心的スケッチ《これはずっと昔のこと/今となっては失われた》(1975)を意味づける。的確である。たしかに説明として成功している。ただぼくには、なにかものたりない。
 というのはロペスは、さらにメランコリー概念をもって18世紀のブレ、19世紀のボードレール、20世紀のベンヤミン、ゼードルマイヤ、タフーリを縦断してゆく。それを読めば読むほど、しかし、凡庸な近代批判のようになってゆく。喪失の意識。たしかに近代は、歴史性も町並みも伝統も失ったのだけれど、それがなにか?
 喪失の事実はたいがいの人は知っている。しかし喪失の意識とすれば、その意識の所有者に尋ねなければわからいであろう。うまくいえないので違う説明をしてみる。
 脱線すると、20世紀の観念論は、研究枠組みであると同時に、研究対象もまた立ち上げた。研究とは研究「対象」を計ることだが、そのためには「ものさし」がいる。ところで「メランコリー」はそういう「対象」なのだろうか?「ものさし」なのだろうか?どっちなのだろう?結論さきどりすると、その対象とものさしの複合体をじつに曖昧な説明で同時に立ち上げているのである。その最初の研究者はじゅうぶん自覚的であっただろう。しかし追随し再生産する研究者は、自分が使おうとする概念が対象なのか計測器なのかの区別をすることをしばしば忘れてしまう。そこに混乱と、論理の堂々巡りの危険が潜在している。そうして漠然と20世紀=メランコリーという等式だけが残るであろう。

(4)フィリップ・アリエスらの死の文化論との比較
 ハンス・ホラインも死の建築に言及している。死への関心は世代的なものなんだろうか。ロペスが何カ所かで引用しているフィリップ・アリエスの死の文化論は、第三章「サン・カタルドの墓地」のための基礎であろう。
 アリエスの文献はぼくもよく読んだし、引用もしたが、ロペスにとっても不可欠のもののようだ。フランスことにパリの、19世紀初頭の都市内埋葬の禁止、墓地の郊外化(p.191のペールラシェーズ墓地)、(ローマなどの都市は)生者の都市であるとともに死者の都市でもあるといった観点(p.196, そんなことはマンフォードもクラウトハイマーもいっているわりと常套なのだが)を導きの糸として、ブレの墓地計画、カウフマンの理論、そしてサン・カタルドらを論じている。ここでも概念道具と、それにより串刺しにされる諸例が、どうも機械的に並べられているようである。もちろん充実した的確な叙述なのだが、魅力に欠ける。(p.146にフェリペ・アリエスとあるのは校正もれだと思うが)

(5)断片について
 結局、ロペスをとおして再読したアルド・ロッシのなかで、ぼくに刺さってくるのは「断片」という概念である(p.149, 164, 179など)。前述のスケッチ《・・・失われた》に描かれた、廃墟、コップ、スプーン、フォーク、瓶、水差し、煙突、納骨堂・・・・の無秩序な併存。絵画として見れば、伝統的な静物画でもなく、近代的なレイヤー構造でもなく、徹底的に関連性を剥ぎとった描写である。そういうヴィジョンが、ある時代の潮流の影響を受けているとか、近代性への批判であるとか、これこれの思想の系譜に属しているとか、そういう説明は個人的には興ざめである。古代ローマを断片化した遺跡の無秩序なコラージュとしてしか描けなかったピラネージからの影響とするのもどうか。ピラネージはそういう永遠の相ですでにローマを描いていたのだろう。ロッシもまたそういうふうにしか世界が見えなかったのであろう。そういう事実性からスタートすべきであろう。
 ロペスはカトルメール・ド・カンシーを引用して類型(タイプ)の観点からロッシを論じる(p.190)。古代の博物誌にあったかどうかはしらないが、近代における博物学的収集は、類型というある観念的な指標からそれら断片を集める。類型化するから断片となってしまう。ミュジアムに展示された文化財は、パサージュのショウウインドウに並べられた品々は、すぐれて断片である。それは考古学でもある。ではなにでないか。たとえば近代都市計画が模索した有機体的な全体としての都市である。ロッシの着眼点(思想というよりそのようにしか世界がみえないというまさにヴィジョン)はまさに有機体的なものの逆である。そこには生は宿らない。だから死なのである。
 ぼくにとりロッシはたんに偉大な建築家であった。ということで研究しようとは思わなかった。しかし意外な接点があった。ぼくも無意識にロッシと対話していたようだ。それは拙著『空想の建築史』の冒頭で述べた「コルプス」(建築がもっている全体性)である。上の世代がもっていた断片だのメランコリーだのといった概念にたいし、建築はやはりコルプスではないかと反抗していたようだ。しかも全体主義を連想させず、有機体といった賞味期限を過ぎた概念にも言及はするが依拠しないで。
 
 というわけで建築家のモノグラフであるにとどまらない普遍的な論点をこの文献は提供している。監訳者のみなさんご苦労様でした。おもしろかった。

 

藤本壮介『地球の景色』を読んだ感想

藤本壮介さんから『地球の景色』をいただいた。ありがとうございます。ワクチン熱もおさまったので、読書感想文を書いてみる。
 この書は2015年から8年間GA Japan誌に連載されたエッセイをまとめたものらしい。世界出張記ともいえる。力をこめすぎない、リラックスした書きぶりのなかに直截な観察が書きつらねられている。読みやすい。リズムがいい。説教くさくない。
 建築家的な文章ではない。ボルヘスになんども言及している。たぶん文芸にも詳しいのであろう。文体が面白い。工学系である建築ではやや禁じ手となっている手法が頻出する。
 まず比喩が多い。wifiでつながれた飛行機はもはや休息の場ではなくメールを「卓球のように一心不乱に打ち返す競技場」(p.43)になってしまったは、にやりとさせられる。「もしかすると、都市というのは、とても大きな、かすかな、信仰なのかもしれない」(p.184)は聖なるものを論じたぼくとしては、まず同意して感銘をうける。「あたりまえの崇高さ」(p.185)もしかり。「世界はただひとつの原理でできているのではなく、むしろ無数の別々のかけがえのないものたちによって成り立っている」(p.185)は、多様性というのもひとつの原理主義だという保留をしたうえで、合意である。
 それから擬音が多いのもそうだ。ぺらっぺら(p.45)、すーっと(p.203)、ぐぐっと(p.75)、するすると流れてゆく(p.200)、すーっと伸びてゆく壁(p.203)、なども工学系らしからぬ。かといって読者を愚弄する反知性主義でもない。これでいえてしまえば文字数の経済につながる。身体をとおして感じたような気になり、さわやかに読めてしまう。
 そうやって前書きも、目次もないこの書を、たまさか開いた頁から読んでもいいのだが、最初から最後までするすると読ませてしまう。読者もパリ、ロサンゼルス、イスタンブール、インド・・・と世界旅行をゆるゆると(脱力して面白く)つきあってしまう。
 ぼくとの接点はなさそうだが一点あった。かつてGAJAPAN誌で藤森照信さんと対談し、モニュメントの意義を論じた。そのときぼくは、世界の構図のなかで、西洋的な実体論にたいして日本建築はみずからを虚としてとらえる立ち位置にあると指摘したら、藤森さんはこの虚実に対応しているのは、伊東豊雄藤本壮介における内外の反転であるときりかえしてきた。ただ時間がなくて詳論できなかった。藤本さんはこの内外の反転という課題についてp.233-236、p.252(アブダビ)などで論じている。もちろんぼくへの回答が準備されているのではない。ただ深読みするに、虚実という二元論こそ観念的構築なので、それから自由になってみることだというように読める。ただ日本建築問題として検討するのは要継続である。
 ゆらぎ。ハギアソフィアやサンヴィターレ教会などのビザンチン建築は藤本さんにとり重要建築のようだ。その空間的特質はスクリーン性、浸透性にあるという認識は20世紀初頭には確立されているので、その「向こうの向こうの向こう」(p.378)が感じられることは特段の指摘ではない。しかしそれが、安藤忠雄のコンクリートは「向こう側」感じさせる(p.285)などと現代建築にまで敷衍されると、新たな意味をもちはじめる。空間の輪郭がゆらいでいることを見ようとする。事実としてゆらいでいるとはかぎならい。ゆらぐものとして見ようとする意思である。
 無。それにちかいのが多くの箇所で語られる「無」である。無時間(p.109)、インドでは「全てが永遠の途中であり、それゆえ時間が意味を持たない」(p.220)、伊東豊雄の建築における「抜け」、空き(あき)(p.169)、空(くう)、チャンディガールには軸線の先に「何もないこと」(p.160)、だからル・コルビュジエの都市計画は「世界に開いている」(p.173)こと、「時空の廃墟」(p.514)などである。これももともとは東洋的な無なのかもしれないが、建築を設計する力となりうる概念である。
 混沌。読者としては著者が使わなかった言葉でサマリーしたい。藤本壮介がゆらぎや無をとおして見ようとしているのは「混沌」ではないか。ロサンジェルスにおける空気と粒子とが、空間と物質とが反転する刹那を見ようとすること。「白は単に白ではない」(p.275)、「触覚と視覚が溶け合う」(p.283)もそうである。あるいは必然性と偶然性の相互補完(p.356)。つまりカテゴリにしたがって分類され切り分けられそして構築される以前の世界、という意味での混沌である。この混沌はなにも数十億年前にあったそれではない。人が知性とやらでそのつど世界を解析し再構築する、その直前にあった混沌である。
 混沌にまで遡及することの現代的意味を追記してもよさそうだ。
 多様性は大切だ、しかし社会の分断、などといわれる。そのとおりだが、多様性はそもそも分類のカテゴリーを大前提としている。したがって世界の多様性を認めるためには、人間の知性の内部が多くのカテゴリーによりあらかじめ分断されていなければならない。だからマッチポンプとなってしまう。そうならないためにはカテゴリーにより分析される以前の状態を想像しなければならない。それは現状を無視することではない。現状を認識したうえで、カテゴリー以前の混沌をもうひとつの認識のレイヤとすることである。
 1990年代までモダン/反モダンの論争があったとはしらなかったが、モダンとはまずマニフェストしてそのように世界を構築するという極端な設計主義(計画主義?)であった。それはイデアを実現するというプラトニズムとも親和的であった。建築理論が重要になるのも基調としてのプラトニズムゆえであった。21世紀はそれとは違ったものになるというのがぼくの読みなのであるが、それと藤本さんの包容力にあるアプローチは近親性がある。
 建築の時間性、芸術的・歴史的価値はそのとおりである。しかしそれらの価値基準はすでに文化として制度として確立されたものなのだから、ほうっておけばたんなる保守主義となり、建築は創造的なものではなくなるであろう。
 そういう混沌を見ようとする、あるいは見えてしまう建築家である。混沌まで遡及して再出発するからこそ、設計は創造的なものとなる。たんなる反復や模倣とは違ったものとなりうるであろう。あるいは混沌を陰画とすれば、歴史として整理され尽くされたかにみえる建築史もまた、創造的に再解釈できるであろう。「古代からギリシアまでをひとつの同時代として」などと誇大妄想にふけった建築史家からみると、藤本さんはぼくに似た系統ではないかと思えてくる。ご迷惑かもしれないが。

ロス・バーンズ著松原康介他訳『ダマスクス 都市の物語』(2023)を読んだ感想

(1)まえがき
 本書を訳者の松原康介さんからいただきました。ありがとうございます。
 聖書にすでに言及されている都市ダマスクスの数千年の歴史を、内戦状態の今日にいたるまで述べている文献である。多角的な視点から描いている。戦争と平和、政治と国際関係、宗教と宗派、都市と建築などである。産業と通商はもっと書いた方がありがたい気もするが。ともあれ細部の面白さにとらわれれば数十巻にもなりそうな内容を本文400頁で概観できるのはありがたい。内容は多岐に及ぶ。ぼくはわりといっきに読めた。年の功で斜め読みも一気読みもまあまできる。内容をひとつひとつ吟味しているとそうはいかないだろう。

(2)著者について
 著者ロス・バーンズはかつて在シリア=レバノン・オーストラリア大使であった。1984-1987年の在任中から歴史遺産を研究していた。すでに1992年に『シリアの記念碑建築:歴史案内』を出版している。残念ながら1988年にシリア見学をしたぼくには間に合わなかったが。のちに古代都市の列柱街路にかんする研究で博士号を取得している。D論は2017年に出版されている。
 外交官が相手国のことを知るために歴史や文化を研究することはよくあることだ。個人的には駐日フランス大使ポール・クローデルを思い出す。バーンズはとくに建築に関心があったようなので、その記述はぼくのような建築史をやっている人間にはありがたい。

(3)訳者について
 編訳者松原康介さんは北アフリカ中近東の都市計画における若い第一人者である。ぼくは、日仏都市建築共同研究機構ジャパルシが最初のころ、京都で研究会を開催したおりに、松原さんと同席していた。その後ぼくは若き日の世界旅行を題材にしたブログ『東方旅行』をきわめて散漫に流していたところを、彼に発見していただいたようである。彼は、ぼくが不案内であるつくば大学の西アジア研究機構の一員であるらしく、その立場でその世界旅行について話をしてほしいと頼んできた。そこで、
 ---2021年1月28日に「地中海からの連想ふたたび—シリア編—土居義岳『東方旅行』の回想」なる発表をした。
 そうでなかったらまったく個人的な物見遊山で終わってしまうものを、いちおう研究のなかに位置づけてもらえたので、ありがたい話であった。

(4)読者(ぼく)について
 ぼくはダマスカス(ダマスクス)を1988年1月に見学した。いうまでもなく、個人的ないきさつはとるにたらないものであった。
 むかし、バックパックをかついでの世界旅行は、すくなくともぼくの世代にとっては建築を学ぶための必修授業のようなものであった。なにしろ地球の歩き方がまだ分冊でないころから知っている。大御所となられた藤森さんや布野さんがこれからはアジアだと宣言していたのを憶えているほどである。そういうことでフランス建築を研究するにしても、大前提としてグローバルな視点は不可欠と思っていた。そもそもフランス古典主義を勉強するなら古代ギリシア・ローマ、それらを刺激した古代オリエント地中海世界を知っておくことはまったく初歩的な常識であった。三宅さんも若くて、建築見学は命がけするもの、などとハッパをかけられたのも思い出す。
 そんなこんなでフランス留学帰りの道すがら、5ヶ月かけて北アフリカ、中東、トルコ、ペルシャ、インド、東アジアをみてまわった。ダマスカスを拠点として周辺の都市や遺跡を日帰り見学もした。それを洒落で『東方旅行』とした。若気の至りとはこのことであろう。伊東忠太はひたすら西に向かった。だからぼくは逆方向で地球を回ることに意義があると考た。ル・コルビュジエの『東方紀行』を気取ってもいた。とどのつまりは偉大な先人たちのパロディを演じるだけだ。シニカルなのであった。まじめにグローバルなんかやるものか笑。
 留学の帰りにより根底的に建築とはなにかを考え、研究対象であるフランス建築を相対化しておくための基礎作業のつもりであった。よくもわるくも回り道であった。D論は遅れた。出世に響いた。長い人生で損失は回収するつもりであった。うまくいったかどうか。ただそれを補ってくれるのが地中海世界、中東のこの地域がもつ、建築そのものの魅力と吸引力なのである。見てよかった。後悔はしていない笑。

(5)アイデンティティではなくバランス・オブ・パワーの都市史
 フランスの地方都市に関心をもっていたころ、地方の中核都市を訪れるたびに、公共図書館や書店で文献あさりをしてきた。そこでは実体として都市史なるジャンルがあるという感覚になる。もちろん○○市史という史料編纂に近いものは、日本にも多いが、それともちがう。すなわちせいぜい数百頁の分量で、多面的に都市の歴史を論じ、ひとつの都市を実体としてうかびあがらせ、そのなかで建築や空間にかなりくわしくふれている、むしろコンパクトなパッケージとしての都市史文献。ぼくの体験では、18世紀においてすでに考証学考現学的なものとしてすでにあり、19世紀には地方学会の叢設とともに都市をひとつの総体として描く文献は多くなった。それが地方自治文化財政策を知的にバックアップするものとして機能した。こうしていわゆる都市史ジャンルが確立した。それが20世紀にもつづいている。そういう印象である。一般的に19世紀の都市史はロマンティックであり叙事詩的である。20世紀のものはもうすこしアカデミックである。
 拙訳ラヴダン著『パリ都市計画の歴史』は内容豊富すぎて一冊には収まらない例である。おそらくだれも注目しないCharles Higounet著神田慶也訳『ボルドー物語』は都市史文献としては専門性への没頭はそこそこにしているバランスのよい本である。
そうしたぼくの読書体験からすると『ダマスクス』はむしろ19世紀的な文献である。
 1990年代日本におけ都市史研究ブームにおいてすでに日本と西洋という対立図式を超えた都市史研究はなされている。イスラーム都市の都市性にかんする議論もそうであった。とくにワクフという贈与システムに注意がいった。
 研究ブームの当事者たちにどれほど意識があったかは知らない。しかし背景として、日本には近代化と西洋化への批判がすでにあったのと、1978年のイラン革命が、かならずしも西洋化におおきく依存することのない、文化の形成に関心がいっていたのである。だからワクフは、資本主義の論理に支配されている西洋都市とはことなるシステムとして注目されたのであった。世界は日本人が期待する方向にいったかというと、そうではなかった。世界はどうなったかというと、レーガンサッチャー以降の新自由主義経済は世界を単一市場にしたかにみえて、そのなかに次の分断と対立の芽をそだて、世界はやがて分裂し、争いはふえていった。そもそも資本主義は、恐慌や戦争といったシステムの破綻そのものをシステムのなかに内包するという荒々しいシステムである。
 現状のダマスカスにおける悲惨からバーンズが本書にこめた気持ちを推測したくもなる。外交官としてこの特殊な都市をどうみていたか、である。
 ネーション=ステーツを完成した国家なら、首都が国を代表し、首都をくわしく調べればその国の主流がわかる。すると政治・社会・文化を貫通するアイデンティティを探すことが記述の中心となる。しかしダマスカスなどの都市はそうではない。むしろ都市は数千年の歴史をつらぬいて存続し続けるが、その上位の機構、部族、民族、領主、王朝、国家、帝国、宗派は交代し続ける。
 すると歴史や文化を調べる大使にとり、都市はむしろ(バーンズはこの言葉は使っていないが)「バランス・オブ・パワー」のうえにかろうじて安定を求める、漂う存在なのである。そういうことでいえばディオクレティアヌスの防御線(p.129)は、ローマ帝国と東方とのふたつのスーパーパワーの狭間としてのシリアという政略的位置関係における死活問題である。これは20世紀の2大勢力の話とよく似ている。ヘラクレイオスとムハンマドをパラレルに描いてゆく(p.145)あたり、ビザンチンイスラムの平行関係が実感できて面白い。ペルシャとローマ、イスラムとビザインチン、キリスト教イスラム教という大勢力のはざまとしてのシリアでありダマスカスである。いわゆる歴史学の専門家が説く歴史よりもわかりやすい。宗教、戦略(ペルシアとの関係、防衛戦とパルミラ)、商業、民族(アラブ人とは誰か)。ローマとペルシアとの関係はいわば超大国うしの緊張、パックス・ロマーナと20世紀のパックスアメリカーナ、である。
 そのなかで「アイデンティティ」そのものがバランス・オブ・パワーの産物として相対化されて記述される。アラブ人とは誰か(p.138)、ヘレニズム的アイデンティティ(p.155)、「シリア」の定義(p.370)などをめぐる研究の紹介もそうである。ヘレニズムの長期的な退潮(p.187)も、むしろなかなか消えないヘレニズムというように読める。アレクサンドロスから始めれば、シリアの西洋化から再東洋化は1000年スパンの長期周期なのである。そのなかでなにが自己の同一性なのか。記述が詳しくなるほど「同一性」の危機がずっとあることそのものが同一性なのであるという逆説が成り立つ。
 バーンズはこうした記述のなかで、まさに外交官らしく「バランス・オブ・パワー」を冷酷に描く。「アイデンティティ」を重視すれば、共感的で優しい文章となるであろう。しかし筆者の冷めた目というか冷酷な現実はそうはさせてくれないようだ。
 ややこしいことにこのバランス・オブ・パワーは「アンバランス・オブ・パワー」をも含むのだが。
 そう念頭におけば史料が豊富な時代については、支配者や有力者の列伝のようである。書きやすい。読みやすい。古くさいスタイルだが、ニュートラルである。読者の関心に引き寄せやすい。建築パトロンとしてのヌールッディーン(pp.233-)などは面白い。

(6)重層性について
 さて、そういう都市の歴史はなんであろうか。正統的な歴史とは、哲学者ヘーゲルがいうような明確な目標(たとえば自由とか民主化とか)をもった流れである。それぞれの都市におけるアイデンティティの希求よりも抽象度が高い理念を目指すものとされる。ところがどのような歴史家が、ダマスカスのもつべき目標を定式化できるか。もう無理なのかもしれない。
 そう考えると訳者が注目する「重層性」とは、ヘーゲル的な歴史観ではないなにかである。そうのようにするしかない。それをもって新しい枠組みともできよう。しかしかならずしも幸福なことでもなさそうだ。「重層性」とは、悲惨な現実をも歴史の重みとして直視せよということなのである。それはかならずしも希望だとは感じない。
 基本的には松原さんの視点なので、ぼくはもうおまかせである。ぼくは、ささやかながらこの地域を見て歩いたので、重層性はまず目に飛び込んでくることであり、驚きではない。むしろ日本はなんて特殊な国なのだろうと思えてくる。
 たとえばローマ時代の水道インフラがイスラームの時代にも生きており、それが便利さや繁栄をもたらしている(p.294)のは感動的ではある。
 ところがぼくの個人的な建築観はへんなぐあいにできてしまったので、へんな重層性理解をしている。つまり建築はすでに古代で頂点に達していた。古代ギリシアで「美」は、古代ローマで「用」「強」は頂点に達した(近代は「強」をさらに向上させたにしても)。すると美術史家リーグルあたりが、ビザンチンをすでに衰退様式としたように、ルネサンスであろうがバロックであろうが、ぼくが研究した18世紀フランスの古典主義であれ、すべては衰退芸術である。近代もしかり。それらはさまざまな変奏にすぎない。さらに西洋中心主義的な見方では、イスラム建築はそもそも生きた芸術ではない、など微妙というかひどい文化論まであった。
 麻薬としての古典古代という発想はけっこうある。もちろん差別的なので言う人は少ない。その当否はおいといて、重層性をいうとき、すべてのレイヤーは同等の価値をもつという完全な平等と相対化なのか。それとも理想的でいちばん普遍的なレイヤーを想定するのか。あるいは研究者が独自の理念をもって、目の前の諸レイヤーの上位にその観念の層を置くのか。選択肢はこれからいろいろあると仮定できる。研究リーダーはどう考えているのだろう。

(7)参考文献について
 著者には失礼かもしれないが、本書でいちばん感銘を受けたのが豊かな参考文献リストである。2段組20頁で紹介されている。まず文献・論文数が圧倒的に多く、これだけで研究者にとってはありがたい。
ただ邦訳の有無は調べたのだろうか。邦訳がまったくないかのような提示なのだけれど。いままでの日本の研究者は西洋語文献や論文をほとんど読んでいないのではないかなどと邪推をうみかねない。どうなのだろう。読んでる人は読んでいるだろう。ヨーロッパのなだたる都市なら、参考文献のなかにすでに邦訳されているものが多少はあるであろう。しかしダマスカスにはそれがないか少ない。
 それからこれもたいへん失礼ながら、バーンズによる本文は一読するでよい。すくなくともぼくは、なんども読み返したり、行間を想像したりはしない。むしろ索引経由で別の研究者や原著を探し、読めば良い。『ダマスカス』はそうした参考文献のジャングルへの玄関、研究領域への道案内であると思えばよいであろう。
 この参考文献リストを概観すれば、どんな興味であっても答えてくれそうな先行研究がありそうである。すると遺構や第一次資料と格闘するのはもちろんよいことだが、先行研究を読むだけでほとんどのことはいえてしまう。問題は、研究者がいかにオリジナルで斬新な問題提起をしてあたらしい断面で文献を横断してゆくかということである。
 研究を展開するには索引、参考文献、用語一覧(グロッサリー)のほうが重要である。気がついたことをいうと、地名ではないが都市に「アレクサンドリア」があるのはよい。ところが人名に「アポロドロス」がないのはどうか。
 フランスには、フランス近東研究所(IFPO)(p.382)なるものがあって、いまだにこの地域の研究をリードしているが、そういう研究体制そのものの紹介が大切である。ちなみに講演させていただいた「地中海からの連想ふたたび—シリア編」でも、20世紀地中海世界の都市計画にかかわったフランス人建築家のリストとそのアーカイブ総覧をもたらした文献を、紹介した。そういう研究インフラの整備をするのもありだと思われる。
 ぼくはバーンズの業績を批判してはいない。本書をそういう研究パノラマとして活用すればよい。プロの研究者ならそうするであろう。

(8)ダマスカスの建築家アポロドロスについて
個人的な興味でいうとアポロドロス(p.108)が面白い。彼はダマスカスの建築家であり、トラヤヌス帝に招聘されてローマのフォルムなど公共建築を手がけるなど、大建築家といえるのである。翻訳された西洋建築史文献にもよく登場する。ところがあまり研究者は言及しない。『空想の建築史』でかるく言及しておいた。
 人名索引にはこのアポロドロスの名をとりあげていただきたいものだ。バーンズは、この古代建築家がアレクサンドリアで建築教育を受けたとしている。最近の研究の深化を反映しているのかかもしれない。ただこの短い記載ではなにもわからない。アレクサンドリアの図書館が知的センターであったのは自明である。ではそこに建築学校があったのか。教師はだれであったのか。学校における教育なのか、現場や工房におけるそれであったのか。そういうことがらを参考文献を読んで調べるのがよいであろう。
 ちなみに『空想の建築史』では、ウィトルウィウスもまたアレクサンドリアにいって文献を読みふけっていたとしてもおかしくはないと書いた。そんなことをふくめて、ローマ、ビザンチンイスラームを貫通してヘレニズム文化(ギリシア語文献で学べる建築学、あるいはそれを翻訳したもの)がいかなるものであったかを調べるのは歴史のロマンである。これからの研究者はそういう視野をひろげてほしい。ちなみに最近のギリシア哲学史においても、古代の哲学者は、ペルシアの哲学を学び、エジプトに赴いては石造技術を学んだという。建築家ならなおさらであろう。
 ヘレニズム文化の広がりと歴史的存続はなぜ面白いかというと、様式判定を基礎とする建築史学がどうしても分類のために時代を輪切りにして切断面ばかりを強調する傾向にあるので、それを中和した方がいいからである。

(9)アルノの文献とオスマン朝時代の都市
もうひとつ提示されている重要テーマがオスマン朝時代の都市計画である。オスマン朝解体ののちトルコはフランス人都市計画家アンリ・プロストを招聘してイスタンブール都市計画などを策定させる。しかし、それ以前すでにオスマン朝は「タンジィマート」という標語のもとに、みずから西洋化・近代化しようとして、それが都市整備に反映されている。これもすでに若手研究者は気づいているようだ。先行研究もあるので短期間で成果が見込める有力テーマである。
 ぼくが松原さんに呼ばれて紹介したのはJ.-P. Arnaud, Damas Urbanisme et Architecture 1860-1925, 2006である。これも参考文献にはいっているが、バーンズはほとんど素通りしたような紹介しかしていない。それはともかく、アルノの書は、オスマン朝「タンジィマート」のもと、ダマスカスの行政も近代化され、それが都市行政にもおよび、鉄道敷設や、都心部公共建築はおろか、住宅地整備の産業化まで西洋のレベルにちかいところまで発展したという興味深い事例紹介である。住宅地の都市組織、道路パターン、地割りパターン、住宅類型、中庭、窓類型などを豊富な図面と写真をもって紹介している。日本にも住宅地形成(郊外であれ都心部であれ)や住宅タイポロジーの蓄積は膨大にあるが、それらと直接比較できるレベルと情報量である。バーンズによる紹介は表面的にとどまるので、ただちにアルノ文献を読むべきである。

(10)最後に訳文について
 ぼくと松原さんとの長い友情に甘えてちょっと書くと、読みやすくはなかった。英語原文の構文(関係代名詞節など)がほぼ推察できるほど忠実に訳さなくともよいであろう。プロの翻訳家もそういっているが、翻訳は原文の再現ではなく、原文で書かれたことの再現である。

 なにはともあれ自分の専門とはならないものを、わくわくして読めたのは久しぶりであった。松原さんをはじめ苦労された訳者のかたがたに敬意を表します。