再録・葉祥栄論その3---SD誌1997年1月号掲載「葉祥栄にとってのリアリティ」

 かつて葉は、自分の建築にふれながら、もはや非建築であることにしか可能性はないといった意味のことを語ったことがあった。たしかに彼の建築は、一見オーソドックスな合理主義的建築によう見えて、なにか独特の雰囲気を醸し出している。例えばガラスという素材の可能性の追及こそが目的であるかのうような「インゴット」は、被膜のみに存在意義を見いだしている点で、それまでの建築とは異なるのかもしれない。しかし彼はハイテク素材にのみ注目するのではない。竹や間伐材を、その土地の素材であるという理由で、しかも新たな手法で使い、民芸調にもピクチャレスクにもならない。
 考えてみれば、葉は逆説的な建築家である。キューブ、三角柱、三角錐などの純粋形態を使ういっぽうで、内住等では従来の概念では有機的建築として分類されるような造形をする。キューブなどの観念的な形態をつかうのは、むしろ光や風といった現象的なものを操作するためである。

 彼はリアリティを求める。しかし彼はリアリズムの建築家なのだろうか。歴史、宗教、神話、偉人を描くことこそ芸術であるという絵画観に対し、市井の人々のそれまで描く価値のないと思われていた生活を描くことが19世紀的リアリズムであるとするなら、彼のアプローチは文化という上部構造の虚構の部分を認めないという点ではリアリズムかもしれない。しかしそのことを指摘しても、なにか実質的なことを分析したことにはならない。というのは、誰しも彼なりのリアリズムをもっているからだ。しかし、そのリアリズムが向かう対象は異なる。だから葉が何にリアリティを見いだすかが、ここでは問題だ。
 光格子の家や、日時計の家は光がテーマである。しかし光を主題とする建築は別に新しいものではない。ロマネスク教会の肉厚の壁に穿たれた窓から入る光は石という物質の素材性を強調し、ゴシック教会のステンドグラスは地上に天上の世界を存在させ、草庵茶室の下地窓は自然現象として変化してゆく光の表情を室内に伝える。しかし葉のこれらの住宅における光は、単に自然を象徴するためのものではないし、何かを照らし、あらわにするための光でもない。日時計の家では、ある時刻はあるスリットから、次の時刻には次のスリットから光がはいる。光格子の家では、キュービックな室内の各面から侵入する光の強さが比較され判明するようになっている。そこでは光そのものが主題であり、建築は一種の分析装置となっている。光が、別のある対象を明らかにするための媒介としてではなく、プリズムによって光を要素に分解し分析するように、光そのものがあるリアルな対象として葉の前に存在する。そうした、葉のリアリティとはなにか。

 あるいは太閤山ランド展望台の上から、環境芸術としての人工の霧を見る時、そこには景観としての霧というフィルターを通して自然を眺めるという伝統的な美意識よりも、自然な霧も人工的なそれも、少なくともミクロにみれば同じ現象なのだという、高揚しながらも冷静なある美意識が見られる。こうした感受性をもつ葉にとってリアリティとは何だろう。
 伝統的な、あるいは少なくともヨーロッパ的な建築観のなかでは、建築は支えられるものと支えられるものの対話である、という考え方が一般的であった。それは古代の神殿における柱=梁構造であれ、ゴシック建築におけるヴォールトとバットレスの関係であれ、こうした2分法は生きていた。建築の本質は柱か壁かという議論が、ルネサンスにもあったし18世紀のいわゆる啓蒙主義の時代のヨーロッパにもあった。荷重を支える柱と、間取りすなわち機能にとって重要な壁のどちらが建築にとって本質的か、という議論だが、しかしそこでも支持/被支持という構図が下敷きにされている。
 一方、西洋建築では、支持される方の屋根構造の特徴は、その強い規則性あるいは幾何学性である。西洋建築のドームは、もともと組積造の原理でできている。鉄筋コンクリートとは違って、補強材としての鉄は部分的あるいは例外的にしか使われない。従って球形や円形などのように応力を計算しやすく構造的に有利な形態が選ばれる。その結果、支持/被支持という対称的な構図によって、平面もまたこうした原理に支配されて、円形や正方形といった幾何学が支配的になる。そうした伝統はコンクリートのシェル構造で大スパンの橋やホールを多く建設した20世紀の大建築家ネルヴィのなかにも生きている。彼は、建築史家ギーディオンによれば、この新しい構造の可能性を最大限にいかしたとされる。しかし彼もやはり幾何学的な構成という伝統を引き継いでおり、調和は計られているとはいえ、自然のなかで人工的で幾何学的な造形物を対比的に使っている。
 ヴィオレ=ル=デュクは建築を個々の石と、石から石に伝えられる応力に還元した。構造体に仮想の断面を想定し、その断面に作用する応力を計算するのが現代の構造力学の基本的な考え方だとすれば、それもやはり支持/被支持という古典的な哲学の延長線上にある。
葉の建築に、こうした境界面はない。むしろ異なる素材が出会う場所には、両者を緩衝しつなぐための第3の素材が強調される。エポキシや、シリコンがそうである。こうした素材が、欠如を補うためではなく、まさに異質なものの出会いのために特別な意味づけがなされる。そうした意識にとってのリアリティとはなにか。
 筑穂町内野の高齢者生活福祉センター+内野児童館と、内住コミュニティセンターは、屋根の独特の形態が特徴的である。鉄筋コンクリートによる実に自由で変化に富んだ曲面でできたシェル構造の曲面屋根だが、それは西洋建築に伝統的に見られるボールトあるいはドームとは著しく異なっている。つまり葉のこうした構造は支持/被支持という断面はなく、それ自身を支える構造である。そこでは支え、支えられるという二分法は存在しないし、曲面シェルはアドルフ・ロースが建築の根本としてとらえた布による被覆のようなものであり、それゆえの襞が内住コミュニティセンターに表われている、とさえ考えることが可能である。
 景観にとっては、屋根と床は、柱や壁以上に重要である。つまり、屋根は空との、床は大地との関係を示しているからである。建築は、空と大地の間に位置し、それらの力を受けながらも、そうした諸力をやりすごし、あるいはそれらを変換し操作し、両者の間にうまく調和的に介在してゆく。そう建築をとらえれば、それはまさに人間の営みそのものである。

 一方では、葉の建築では、床が自己主張しない。地面に密接する形式の建築では、大地がそのまま床となり、起伏に富んだ土地に建設される建築では、床は逆に軽々と宙に舞い、いずれにしても床は堅牢な人工性は主張しない。
西洋建築には床は重要ではないかと思われるかもしれないが、「基壇」は造形上、人工的な構築物を周辺から際立たせるためには欠かせない要素である。それは環境や自然に対して対峙しようとする。
 内野の建物は老人の足元を考慮してバリアフリーであり、徹底して段差を排除している。中庭の芝生も、縁側も、内部の床もすべて同じレヴェルにある。外周はすべてガラスであるから、床は大地のそのままの延長であり、その結果、これは民家における土間の開放性に似たものとなった。内住でも、縄文時代の縦穴住居のように、敷地はすこし盛り上がった場所にあるが、逆に、内部の床はすこし凹んでいる。
 葉の建築のあるものは、屋根と大地からなる縄文的な造形である。南方的な高床ではなく、明らかに竪穴住居を髣髴とさせる。そしてこうした古代人にとって屋根を架けることが最も重要なテーマであった。こうした建物の屋根は、大地の上に漂う雲か霧のようだ。あるいは林か竹薮に例えたほうが適切であろう。コンクリートの柱は木や竹の幹を、屋根は茂った枝と葉を象徴する。村の人々は、この木陰で集う。
 松下クリニック、海と空の間のガラスの家などに見られる床は、意図的に構築的な強さを与えられていない。それはもちろん西洋建築におけるピアノ・ノビレでもないし、ピロティによって力強く支えられたル・コルビュジエの床でもない。それはまるで、自動車の床が地上数10センチを滑空し、飛行機の床が空中高く舞い上がる一瞬を凍らせたようなものだ。それは確固たる存在でありながら、建築としての特権は意図的にはく奪されている。
 しかし縄文的なものと弥生的なものの対比がここで重要なのではない。西洋建築で特徴的な、人工と自然、内部と外部といった二分法が、ここでは極力回避されている。ここではそのことがコンピューターを使った合理主義的方法によって達成されていることが興味深い。建築構造は静力学の問題だが、この力学は人工物のみならず自然現象をも支配しているはずであった。こうした意識にとってのリアリティとはなにか、再び問いかけて見たいみたい。

 内住や内野の建築は、平面がまず自由である。内野では、集会室、個室、食堂、児童図書館といった多くの機能が比較的自由に、敷地の形状に従ってのびのびと設定されている。次に屋根構造が決定されるが、支柱の位置もまちまちなのでコンピューターによる構造計算が不可欠である。しかしその結果、屋根の形は自由な平面を反映した、変化に富んだものになる。平面は比較的整形の小田原総合体育館やふるさとパレスギャラクシーホールでも、その屋根の断面をみれば、屋根から見れば任意に配置された支柱に適合して、屋根が様々な厚みをもっていることがわかる。

 これは公園などの設計で、道等をあらかじめ図面の上で決定するのではなく、自然にできた獣道を後から整備して道とするのと少し似ている。つまりあるアプリオリ幾何学性から始めるのではなく、手続きは徹底して合理的だが、それ故に逆に、最初の偶然性がうまく表現のなかに反映される。それは空気中の水蒸気が結露して微小な水滴となって空中のなかである平衡状態を発見し、雲として自己実現するのと似ている。
 葉は自分の作品を説明するというスタイルでしか思想を表明しない。だから彼にとってリアリティとはなにかということは、まだ体系的には説明されていない。しかし逆に、彼がどんな方法論を採用しなかったかを見れば、少なくとも彼が何にリアリティを感じていなかったかは判明するだろうし、そこから彼にとってのリアリティが垣間見えるのではないか。
彼が採用してこなかったのは、西洋的な二分法のそれである。支持と被支持、内部と外部、大地と床、人工と自然。それらの間に境界線を引かないために、媒介的な素材、平衡点、襞といった概念が浮上する。伝統的な二分法は、世界を二領域に分割したが、その両者の一致こそがリアリティを保証すると考えられてきた。つまりリアリティというのはそもそも世界の二分法の結果として生まれた概念のようなものだが、葉は、出発点において意図的に分断したものを最終的に一致させようとするのではなく、こうした構図そのものを始めから見ない。だから彼のリアリズムは今は迷宮なのであり、それ故にこそ葉にとってのリアリティは何かを問う意義がある。こうした彼の方法論に立脚したリアリティとはいかなるものかは、これから徐々に明らかにされるであろう。しかしどのみち彼にとって建築は、内部の囲い込みではなく、環境全体の再秩序化なのである。