建築の七つの冒険

きのう、山下保博さんといっしょにワインをいただいた。"Tomorrow"と"Listen to the Materials"なるご著作もいただいた。ありがとうございます。

じつはそのまえに、午後、1年生用の入門科目の講義をした。テーマは、21世紀の予想される趨勢と、それを念頭においた心構えという大仰なものと、丹下健三の建築というこれまた大仰なものであった。

基本はぼくのような20世紀(東西対決、インフレ、人口増加)の人間と、きみたち(教室の学生200人)21世紀(ワンワールド、デフレ、人口停滞と減少)人は人種が違いすぎるので、ほんとうはアドバイスできませんけど、という保留をしたうえでの話である。まずきみたちは2080年代をこえて長寿であり、ほぼ21世紀全体を生きるし、実労期間は50年をこえるだろう、しかし産業構造は20年ごとに激変するから、キャリアのなかで1回~2回のギアチェンジはかならずある。そういう可能性があることを前提とすべき。さらに人、食料、生産品、資本などすべて過剰となる長期デフレ社会ではつねに競争をかちぬく、そのためのイノベーションだという気の滅入ることもうけいれねばならない、そのためには学生のうちに異種部門の友人をつくって、各界にネットワークをのばせるとよろしい、など。つまりぼく自身がやってきたことの真逆である。

丹下健三論としては、ブルーノ・タウトの伊勢評価に刺激をうけた日本建築界が、さらに伊勢建築理論を深化させて独自の精神性と深みに到達したのが、丹下健三においてであり、大東亜プロジェクト、広島、代々木、東京カテドラルなどをならべると、彼は一貫して「精神的な伊勢」を探究したことがわかる。彼自身はそれを「象徴的」と称していた。その象徴性の次元において、神道カトリックもかれにとっては同じであった。

学生にはそんな話をした。いきなりこれでは消化不良かもしれない。でも最後までほぼ全員が神妙に聞いてくれたようなので、20年後、彼らの心のなかで復活するかもしれない。ぼくは目の前にいる学生ではなく、20年度の立派な専門家たちに向かって話している気でいる。

夜、山下さんとお会いしたので、そんなことも話し合った。香川県庁舎はどうみても桂の路線なのだが、今見るとあまり迫力がないのは、そもそも原型にそうした崇高なる「象徴性」が不足していたかのように思える。

そのほか震災、競技場、建築業界、批評、交友、共通の友人、ここにいない第三者の建築家、世代論、人生計画などなどである。ぼくはいつもは物静かな人間のつもりであるが、おいしいワインのおかげで、しゃべりすぎたようで、宮崎に出張している大物建築家に、電話口でどうも酔っぱらって挑発的なことを言ってしまったようだ(反省しています)。

建築の5つのオーダーとか、7燈とか、建築はセット化が好きなである。それとはちがって山下さんの「7つの冒険」というセットはダイナミズムを感じさせる。さらにそれがモノ/コトの座標軸化により計49マスのマトリクスが生じる。建築家としてのアクティビティやアプローチを、○○主義というひとつに収れんさせるのではなく、定義をしっかりしたうえでの多様性を展開されようとしている。最近、建築の新方向をさぐるために、まず建築家の再定義がいるという論調が広まりつつあるようだが、山下さんは意識のチャンネルがおそらく最初からマルチ化されており、そのマルチ性を使いこなしているという印象であるし、そのような建築家性(?)について意識的でいらっしゃるようである。