2016年元旦(エージェントの時代?)

冬休みはアーバンリゾート、呆けてすごそうかと思っていたが、処理すべき書類もあって、漫然と読書して音楽聴いてというにはほど遠い(とほほ)。次善の策として雑誌をぱらぱらめくる。

『SDレビュー2015』は鹿島建設からいただいた。去年内にお礼すべきではありましたが、ありがとうございます。年ごとのレビューにとどまらず、特集記事が読ませる。重村力インタビューや、「これからの時代の建築と、プロジェクトデザイン」は前世紀のレビューがそのまま今世紀のありかたを探る論考にもなっている。20世紀的な計画概念がかなりまえから成り立っていないなかで、柔軟に永続しつつものを支えるシステムのマネジメント、などといえようか。

現代思想2015年1月号・総特集=見田宗介真木悠介』はわかりやすくおもしろかった。とくにこの社会学者が柳田國男の世相論に注目していたこと。考えてみれば当たり前だが、あるひとつの事件や事例のなかに、社会のある普遍的断面を観察するような感受性と方法論である。そういえば弟子スジの学者たちはそれを意図して心がけているようにも見える。あとは「自我の起源」が、ダーウィンの「種の起源」のむこうをはっているという指摘である。ぼくには田辺元の「種の論理」に対抗しているようにも思える。人間が徹底的にアトム化された20世紀、戦前には全体主義、戦後は構造主義、などで人間の自律は徹底的に批判されるのであるが、田辺は「種」をいい、真木はそうではなく「個」を主張するのである。

『atプラス26 シニシズムを超えて』は、1970年代以降シニカルであった日本人の政治参加が再起動したかという希望が語られると同時に、団塊団塊ジュニアといった世代論的なくくりがもう成立しない新しい時代にはいったということが指摘されているが、もちろん60年前の単純な復活などは意味がない。柄谷行人『Dの研究』はこの雑誌の現状における背骨であるが、今回はまだまえがきていどにすぎないので、もどかしい。『イソとスメラ』は、都市計画史のおおきな枠組みで論じているようで、最終的には個人史にしかならないのは、建築史家のもつべきビジョンとしてはつまらないという印象。

現代思想 2016年1月臨時増刊 パリ襲撃事件』は、各分野の専門家たちが解説してくれるので、勉強にはなるが、どうも全体としてどういうメッセージなのかがはっきりしないのは、緊急性のなせるわざか。どうも「希望のなさ」をめぐるゲームが世界を支配しているようでもある。フランスは共和国であることが国是であったが、極端に追い詰められると、それを修正してしまおうとする動きもあるであろう。いつまで共和国でいられるか、の闘いである。たほうネットワーク型のテロリストたちは、ひとつの社会構築としてひどく21世紀的なのである。知らないあいだ新旧が交代している。

岡本太郎『美の呪力』は、初出1971年。この芸術家についてはいろいろ論じられているので、耳学問だけでけっこう知っているつもりになってはいた。オリジナルを読んでみると、1930年代のパリ現代思想、1960~70年代、そして2010年代と、ほぼ等距離であり、全体はほぼ切れ目なく地続きなのだということも実感できる。そしてそれが日本における沖縄の課題にぴったり重なる。岡本はきわめて適切に、この課題をピックアップした。ついでにいうと『SDレビュー2015』ですこしふれられた建築家集団もそうである。

しかし岡本がパリでイニシエーションを受けていたことはきわめて重要だと、ぼくには思える。たんなる洋行帰りのアーティスト以上のなにかであった。その結果、無関係な第三者からみれば、芸術家はべつのなにかのエージェントであったわけである。あるいはそう見えるのである。それを考えればエージェントの時代だということは、20世紀から21世紀へとそのまま続いているかのようである。

すこし重い正月である?