廃墟論

工学部一号館で建築史の話し合いがおわったあと、隣の教室で人文系の先生方が廃墟論を論じていたので、小一時間聞いてきた。80年代の廃墟論のレビューであった。

コメントを求められたが、もう年寄りなのだからどうしようかとすこし躊躇し、手短なコメントにとどめた。廃墟とはもはや生きられていない建築だが、そこでは住人がいないのではなく、むしろ「不在そのもの」があるという主題性ではないか。そして虚なるものがリアリティをもった存在に感じられるのは、むしろ霊魂、悪霊を感じる感じ方にちかいのではないか。ということをいった。するとホラー映画の文脈とか、あっというまに論を組み立てられるのはさすがであった。

そののち、すこし考えてみるに、近代宗教学のなかで、名付けることもできない初源的な霊性のようなものを「マナ」といい、それが発展してアニミズム、原始宗教、多神教一神教という発展図式ができたのは19世紀末ころであったことを思い出す。そうすると80年代の廃墟論は、直裁には産業構造とそれに連動した都市構造の変革というものがあったにせと、人々は無意識的に、その変革のプロセスにおいて不可避的に出現する空虚のなかに、マナが跋扈する原世界といったようなもの、人間の構築が介入する以前にあるのは完全な真空ではなく、なにか霊的なものに満たされたなにかがある、という構図が浮上する。それはゲニウスロキといった、その場所固有の憑依霊だけではなく、人間がアプリオリにもっている霊的衝動のようなものではないか。それは私たちの精神を投影したものではないか。

それから多木浩二の「生きられた家」と、この霊的空虚としての「廃墟」は、みごとに、というか本質的に、対(つい)をなしているようにおもわれる。20世紀後半的文脈においても、思想的文脈においても。ぼくとしては建築的文脈でならすこし推論できるかもしれない。