GA『二〇世紀の現代建築を検証する』

GAより賜りました。ありがとうございます。すこし前に届いていたのですが、海外でぶらぶらしていたので、目をとおすのが遅れました。

1999年に出版されたものに「あとしまつ」を追加されて出された。当時からそこはかとなく意識していた本書であるが、なんと14年もたってしまった、というわけである。

日本のそして世界の建築界にとってのGAの意義というものも考えてはみるのだが、まずたんに出版社というより、メディアをとおして現実にかかわっていった当事者というかんじがする。カメラマンとしての二川さんは、たんなる記録者ではなくその鑑識眼と写真観をとおして近代建築の美学を構築することに貢献したといえるであろう。

そうした点も「あとしまつ」には書かれていた。現代建築評でもあるが、それはかなり二川さんの写真によっていちどフィルターを通過した建築についてであった、というような点。個人的には、彼の写真は、建物に正対し、粒子密度の高いフィルムをつかう、極端にオーソドックスでありながら、それが個性となるようなもので、しいていえば、新古典主義の美学をぼくはみてしまう。とくにファサード写真だとしても、超広角レンズをつかったり、あおり抑制レンズをつかったり、肉眼ではとうてい知覚できないような光景を写真として固定する。だからそれらは現実的というより、むしろ理念的であり観念的ですらある。それは写真家が、建築家になりきってとる写真であり、彼の建築評価はそういう役割のオーバーラップの上になりたっていると思われる。

個人的には、70年代あたりに意図的に粒子の粗い建築写真がはやったが、二川さんはそれを嫌悪しておられたことが印象にのこっている。だからといって二川さんが写実派であったとはとうてい思えない。写真はどのみち建築をディフォルメするのだが、どちらの方向にそうするのかが、写真家の思想であるということの教えである。

さて『二〇世紀の現代建築を検証する』なる文献は、14年前は、博識のかたがたのたいへん高尚で視野の広い議論であるという強い印象であった。もちろん10数年してもそれはそのとおりなのだが、事情通であり、いろいろなことに精通して書かれれば書かれるほど、結局、なにをいおうとしているのか、と読者はいぶかるものである。

おそらくその核心は、本書をよく読むだけでなく、論者たちそのものを歴史的与件として研究しなければ見えてこないしろものである。語られた時代の臨場感が薄らいでゆくこの今という途中では、その事情通の側面ばかりがつよく表れているという印象はぬぐえない。

つまり本書は、20世紀を対象化しているようで、まさに20世紀そのものである。20世紀そのものでありうる写真家、建築家、歴史家は偉大であろう。では、というか、だからこそ、読者たちはそれら全体をどう対象化できるか、ということを突きつけられているような気がしてならない。

余談だが、読書感がなにかに似ているなと気にしていたが、やっとわかった。佐々木宏『近代建築の目撃者』(1977)と雰囲気がよく似ている。もっともこの書は、50年前の近代建築運動の当時者たちの回想として書かれていたもので、半世紀してやっと対象化できたというわけである。GAの本も、目撃者たちの当事者談なのである。ついでに『建築の一九三〇年代』というのも20世紀を認識するための必読書であろう。

それにしても20世紀建築を日本的視点からなかなか書きにくいのは、いつまでも「待ち」の姿勢であるからであって、歴史などというものは力強くフレームアップするものなのであろう。

そしてすくなくとも二川さんは建築についてヴィジョンがあった。それにたいして、ヴィジョンが描けないのが今ですよ、という言いかたもあろう。どちらでもいい、どっちかだ、どちらでもない、という選択肢ですらはっきりしないこの宙づりもまるっきりの他人事としてはいけないのであろう(か?)。