國學院大學たまプラーザキャンパスにて

明治神宮以前・以後』書評をテーマとする研究会があった。ぼくはゲストコメンテーターのような立場で、招待していただいた。専門家だけの集まりだと煮つまってしまうので、ぼくのような門外漢は必要であったらしい。

アウェイというか他流試合というか、おたがいにリテラシーがわからない。そこでぼくとしては西洋建築史の立場から、もっぱら比較文化論としてのみ語るが、非礼にならない範囲で率直にものもうす、いいかえると読書しながらわきおこる妄想をそのまま書き連ねてゆくこととした。その書評に対し、10人以上いらっしゃる執筆者の方々から応答があった。

神道学研究者にたいしては、19世紀フランスの宗教的状況を漠然と申し上げた。国家神道批判への再批判はたしかに一理はあると思いつつも、こちらには総論を述べる力はなく、地域祭など地域コミュニティの核としての宗教というとらえかたをすると、東西比較はもっとやりやすいと述べたが、それへの反応は明確ではなかったが否定的でもなかった。

造園学専門家の方々へは、日本の造園学が分野的な自己アピールとしての、たとえば日本近代造園史みたいなものを書かないので、素人は学習できなくて困ると申し上げると、それはそのとおりというご反応であった。さらに上田篤の鎮守の森論などは、近代的観念構築ではないか、初期造園学者たちはドイツ林学を経由してドイツロマン派思想を受け継いでいたなどの憶測については、間違いではないというご反応。

などなどであるが、建築を代表する立場の青井さんと話し合っては、明治神宮は基本的には財界・実業界のプロジェクトである、神社建築のテクノクラート化、標準化については、いわば神社建築を科学化することでその他もろもろのビルディングタイプと同列のものにしてしまうことで、大量生産に応えた。しかしそれゆえに「神聖さ」を放棄してしまった。ということでほぼ合意。

結局、明治神宮は、建築はその「神聖さ」を放棄して、新たな担い手である鎮守の森にまったくゆだねてしまう、その神聖さの委譲のプロセスであったという、これもまさにぼくの妄想の極み。その延長線上に、神社を常設建築から、仮設、自然そのもの、へと還元してゆくこれまた近代に構築された建築起源論的思考、さらには鎮守の森こそが神聖さを担保するというこれまた近代特有の観念構築である、などと妄想全開すれば、ほぼ構図はできあがったというべきである。

すると丹下健三の伊勢モデルとは、ふたたび神聖さを建築に取り戻そうとする反動であった、などということになる。なんとも因果な日本近代である。

ただ明治神宮的なものが、日本の現代建築の遺伝子となって、敗者、負ける、非大陸的、非構築的、などといった枕詞になってあらわれてきた、などということもできる。などと反省すると、太田博太郎がなぜかこうした近代建築的な美学にもとづいて、日本建築の通史を語ろうとした、その構図を崩せるのかもしれない。それこそ通奏低音のようにつづく日本(建築)思想というものであろう。