ユハニ・パッラスマー『建築と触覚---空間と五感をめぐる哲学』草思社、2022

標記文献を草思社様からいただいた。ありがとうございます。
 スティーヴン・ホールによる前書きによると、a+u誌の特集「知覚の問題---建築の現象学」(1994年7月)などがたたき台になっているらしい。もちろんこの特集は知っている。本書にしばしば引用されるバシュラールメルロ=ポンティはそうとうはやく日本にも紹介されていたので、すでに広まっていた建築の現象学的解釈を継承するものか、21世紀的な視点もあるのか、が読者としての興味であった。
 本論では、情報化、コンピューター活用によりますます視覚優位の建築になってしまう危険性が憂慮されている(p.20)。このあたりが現代的な意味なのであろう。 
 人間の知覚を五つに分類し、人間はそれらを媒介として世界をどう知覚するか、諸感覚どおしの関係はいかにあるか、は西洋哲学をつらぬくテーマである。古代ギリシアはもちろん、とりわけ近代においてこの問題は注目された。それが実存主義現象学にもとづく考察を生んできた。
 私見によればとりわけ17世紀が重要である。この世紀において視覚を上位にすえる考えが優性になった。反射的に、その優位性を批判することもなされはじめた。ちょうどデカルト哲学において主観と客観がきびしく峻別されたことと即応的に、この二元論を乗り越えようということがなされたのと似ている。 
 著者ユハニ・パッラスマーは建築家であり、かつ建築論の論考を残している。とりわけ彼は哲学と建築をどう接続するかを考える。アアルトなどのフィンランドの伝統にのりながらも、西洋哲学における知覚の問題をよく把握している。バシュラールベルグソンメルロ=ポンティらの理論を論拠としているのはやや常套的かもしれない。
 しかしそれが建築的実践のなかで具体的にどう現れ、建築家としてどう処理してきたかのを具体的に述べている。彼は「建築とは私たちと世界とを仲介する術であり」(p.126)という明快な指針をいだく。そのために多感覚の建築(p.123)を仮定する。アアルト建築の触覚性のみならず、建築は人間の実存、記憶の身体化、周囲に溶け込むことにかかわる。そのために手で建築に触れ、その素材感や暖かみを感じ取り、ときには直接口で味わうことまでするという、建築と五感との関係をくわしく具体的に描いてゆく。建築は限定された感覚器官のみならず、身体全体で感じられる。手が暖炉の暖かさを、足が地面や床の質を感じる。建築を体験しあるいは設計するなかで、これらの視点をあらかじめ知っておけば、きわめて深い建築体験となるであろうことは推薦できる。
 本書は建築を論考するためのよき手引き書でもあろう。本書を読めば、建築を体験し五感で感じることの諸例がわかり、それにより建築見学の視点も得ることができよう。哲学者の名前も示されていることから、建築体験から逆引きして哲学者を発見して、その哲学を読んでゆくこともできるであろう。建築を出発点として、そこから哲学に上昇して古典を読んでゆく。哲学から下降して建築を論じるのではない。そういう新たな読みかたもできるであろう。
 注文としては、フランス美術史の碩学フォシヨンが「手で考える」により、触覚の受動的な感覚のみならず、能動的な思考をいっていたことや、16世紀リヨンの建築家デザルグ(p,45)はもっと重要なのだが、といった感想をいだく。
 ところが現代は視覚中心とはいえ、そのまさに視覚中心的な世界観は、古代ギリシアをベースとしながらも、17世紀から顕著になり、20世紀はますますそうなるとはいえ、それにたいする批判もまた近代思想の中核をなす。すなわち現代の特徴は、視覚中心的な傾向というより、視覚中心と反視覚中心とのあいだの葛藤である、ということである。現代建築においては視覚的な方法論も重要だが、素材という触覚的なものが必須なだけに、このような議論はまさに建築においてなにがエッセンスかを再確認する意義があろう。
 情報化に批判的であってもよいが、なにをもって情報化なのかも示すべきであろう。私見では、情報化とは微小化であり数値化である。それは五感を横断する。だから情報化により五感が統合され、中村雄二郎がかつて『共通感覚論』でいおうとしたことにもちかづくかもしれない。ただそういう統合は平板なものに終わるかもしれない。
 手前味噌だが『知覚と建築』ではその視覚中心が17世紀に台頭した例としてクロード・ペローについて述べたあと、その人間の基本的な認識能力である視覚をいかにモデル化できるかに挑戦した。そこでラカンの鏡像関係の概念をさらに拡張して、「合わせ鏡」の図式を考えてみた。この図式だと、無限の反射関係により無限な空間が現象としてたちあらわれることや、主観と客観が相互作用を及ぼしあう関係が空間的に描けること、現代を特徴付ける再帰性も描けることなどを指摘した。さらに『空想の建築史』では眼球なき視覚という概念を提案してみた。これらとて先学にいろいろ負っているのだが。視覚批判ももっともだが、なにをもって視覚とするかという定義にまでさかのぼることを議論してもいい。
 ところで人間の臓器と知覚はそれほど一対一対応ではない。音を感じるのは耳だけではない。皮膚も筋肉も音を感じる。しかも感じる周波帯もちがう。原著タイトル『皮膚の目 The Eyes of the Skin』は、臓器と五感の相互乗り入れを示唆している。だから「建築と触覚」はそのとおりだとしても、人間における五感の分類と、器官(臓器)の分類はまた違うのだという本書の主張にももうすこし配慮してもよさそうである。こなれた読みやすい訳文であり、かつコンサイスな本なので、くわしい訳者解説があってもよかったのかもしれない。