青井哲人『ヨコとタテの建築論』(2023)を読んだ感想

青井さんに同書をいただきました。遅くなりましたがありがとうございます。
 この書は建築論なのだが、それそのものというより、建築論はいかに成立するかという本である。いわばメタ建築論である。そういう点ではぼくの方法論に近い。
まずヨコ/タテを象徴的に、あるいは象徴論的に語っている。
 ラスコー壁画の具体的な話は本文に譲るとして、「タテ」とはようするに超越的なもの、超越論的なものをめざしてしまう現生人類の本質である。それをアナロジーとはなにかという論考をとおして語っている。愚考では類人猿から人間へと進化するプロセスでまず脳が進化したことが語られている。つまり中心と周辺なからなる構造ではなく、複数のPCがネットワークで結ばれている同時並行処理型の脳に変化したという説明である。アナロジーとは、あっちの処理とこっちの処理が同じだいや違うといった脳内対話ができる人間の脳の特質なのであろ。・・・超越とは具体的には神、王、普遍、法則・・・などの意味があるが、あらかじめ決まっているのではなく、人間はなにか超越的なものを目指す、すなわち「タテ」に運動するものだという了解である。
 さらにぼくは『言葉と建築』(1997)において「デコル論」すなわち内容(S)と形態(F)の二元論が西洋思想をつらぬいていることを書いたのだが、それを詳細にとりあげて、ひとつの軸とし、なんどもそこに回帰して論じている。青井さんは《神殿の聖ステファノ》を幻想絵画としてこの内容/形態二元論を論じているのだが、かならずしもふたつが一致すべきというのではなく、いっぽうが他方を喚起するという機能に注目し、建築が共同幻想を成立させるための契機になるといっている。つまり建築は虚構さえも生みだす力があり、この普遍的な仕組みでさまざまなことを論じている。
 そういうわけで土居が紹介したデコル論関連として、まずデコル論を提起し(38頁)、様式概念の話(176頁)、ふさわしさ概念の話(212頁)がそこから派生しているというようにぼくを引用している(ありがたい)。図式的には、この古代修辞学の概念は、近代の言語論におけることば/意味がもつ関係の恣意性ということに近い。しかしこれをより広げると、二つの水準がもつなんらかの関連性ということである。既存の二元論の水準をあげて、より一般化する、そのようなことを青井さんはこころみている。
 ということで「タテ/ヨコ」とはそれそのものは思想でも哲学でもないが、きわめて純度の高い抽象図式として意図的に使われているといえよう。つまりタテ/ヨコ図式の両項にはいろいろなものが代入できる。超越/凡庸、図/地、記念碑/市井の建物などである。無限の代入可能性ということが際立っている。青井理論の核心であろう。メタ建築論ともいえよう。
 さて各論も面白い。
 もちろん好きになれないものもある。地球上の都市組織は4種類に分類される(97頁)、構法も4種類に分類される(118頁)などがそうで、そこまで地球征服をしたくなる動機をぼくは共有していないし、ミニマムな類型化で「世界がかなりすっきり見渡せるようになります」(121頁)などといわれても、人は無限種類の幻想をいだくほうが楽しいのだがと思ってしまう。連想するのがエマニュエル・トッドである。彼は少数の家族類型が多様に見える人類と世界を決定しているのだという。トッド理論をもってすれば世界はすっきり見えそうだが、ぼくは最後まで信じてみようとは思わない。
 ただぼくの建築理解とつながるところもある。ティシュ/オルガン/コルプスなどはうまい三段論法だと思うし、もっと普遍化できると思う。有機的、生概念、深層/表層(171頁)、類型論/組織論(175頁)もいい着眼点である。
 すこしちょっかいを出したくなるのは透明性(226頁)の話である。コーロン・ロウの話の展開でもある。しかしこの理論は、ロウも気がついていないかもしれないが、見えると信じるから透明だと事後的に認めるのだが、透明は事前にあったとするのは錯誤ではないか、問題は人間はこの錯誤に依拠するシステムなのではないか、と思ったりする。個人的には人間の脳は見えないけれどあるはずだという「信じる」能力が、事後的に透明という概念を生むのだと思う。透明の概念があるから見えないものが見えると思うのではなく、見えないものでも見える(見えると思える)から透明性という概念が要求されるのであろう。いやどちらなのだろう。もっと深めると、見ることを眼球と脳の共同作業とすべきなのである。つまり眼球が捕捉しないものも脳が認識する、という総合的な視覚もあるのではないか、ということは「眼球なき視覚」が理論的にはありえるということである。個人的にはこんなことくらい先学がいそうだが、論文を探すのがめんどくさいので放置してある。
 いちばん面白くて読んでわくわくするのが「表象の意図的な除去」とでもいえる現象である。明治神宮にいちばん凡庸な流造りを選んだこと(189頁)、イギリスにおける2分間黙禱(197頁)、モーセが表象を禁じたこと(209頁)、白い近代建築(211頁)などである。ぼくならオベリスク論を追加したい。つまり建築表現をめぐって諸イデオロギーが対立しているとき、ある意味を帯びた具体的なものを選ぶことはもはや不可能であり、意味をすべてなくしてタブララサそのものをもたらすしかなくなる。近代という多様な時代はそういう選択がくりかえされたのである。青井さんがこれをさらに深めれば、近代を理解するための不可欠の項目とするであろう。さらにこの議論は、内容/形態の二元論を通奏低音とする本書のなかで矛盾するものではない。まさに意味(内容)をゼロにすることもまた、デコル論の展開のなかに収まる。青井さんはそうすることで、自身の論考を完璧なものにし、デコル論の普遍性をさらに延伸しているのである。
 日本の研究史的にいえば、青井さんはいわゆるグローバル化が現実になりはじめたころに研究をスタートさせた世代だから、歴史なるものも認めてはいるが、それを情報の海として認識して、そこからなにが立ち上がるかを思索したのであろう。だから特定の建築家、流派、様式、思想などを出発点とはしないのである。ただ海もトビウオ(279頁)もそれこそアナロジーで召喚された表象にすぎないのだが。
 さて最後にこの書の印象だが、建築論としながらも、ぼくには「建築家になり世界とかかわるとはどういうことか?」を述べていると感じられる。つまり建築とはなんぞやに具体的な指標をもって答えるのではない。建築家とは誰かという問いに古代ギリシアの理想的建築家像や近代の職能運動をもって答えるのではない。具体的なものはとくにない。しかし「座」「態」(中動態)などはある。建築家はつくり、つくられる。基本的には再帰的なものだ(ということで『空想の建築史』の作者としてはそのとおりという感想)。そして「虚構の生産」とはいうのも、ぼくはある意味で反対しない。ただ文字どおりの虚構なのではないであろう。そのつど超越して超越論的につくりつくられる建築家自身がそもそも虚構である。だから生産されるものが虚構であってもしかたない、ということであろう。「座」といえば、王を論じるのではない、王座を論じるのだ、というようなことであろうか。
 「代入可能性」をくりかえせば、とくに具体的ではない変数x, y, z・・・により方程式をつくり、それを理論とする。変数x, y, z・・・にそのときどきのものを代入していけば現実に着地できる。そういう、古代風にいえば論理学、現代的にはメタ理論を構築しているという点では最近の建築論のなかでも出色のものであろう。 
 そういう意味で「世界」の世界性を論じている3種類の社会性はもっとくわしく説明してもらいたいが、伸びしろでもあるのだろう。それでも終章にあるからには青井建築論のあらたな出発点ではあろう。さらにいえば虚構というからにはAIやメタバースによる未来をすでにさきどりしているようにも感じられる。