豊川斎赫『国立代々木競技場と丹下健三』TOTO建築叢書、2021

豊川さんからご恵贈にあずかりました。ありがとうございます。
 丹下健三研究の第一人者豊川さんが書いているのだから、安定感抜群、内容充実、川口研所蔵の丹下資料等の新鮮な素材の提供など、コンサイスな本でありながら多角的で読み応えがある。ただ「あとがき」にあるように世界遺産登録にむけての推薦書をという出版のいきさつもあって(英語版もあるし)、やや報告書的な雰囲気も漂っている。それでもそれを補ってあまりある素晴らしい本でもある。そんな感想を以下、述べてみる。
 目次としては、
まとめ
第1章 朝日新聞紙面から読み解く代々木競技場
第2章 丹下健三による建築作品の5つの特徴
第3章 都市デザインから読み解く代々木競技場
第4章 建築デザインから読み解く代々木競技場
第5章 運営方針と保全改修から読み解く代々木競技場
第6章 まとめ
 である。実質的には5部構成であるが、ぼくなりに看板を書き換えるとすると、
第1章 興行史・イヴェント史(そこでなされたスポーツ大会、コンサート、サーカス、バレエ、演劇、ファッションショー、政治集会等催事、・・・pp.38-39に一覧表)
第2章 丹下の方法論5要点
第3章 都市史・地域史的な位置づけ
第4章 建物の基本設計・構造設計とりわけ建設工事
第5章 施設としての管理運営史、保全改修史
 ということになる。ぼくなりにそういう意味づけで読んでいたわけである。それぞれ感想をいうと、
 第1章はこれだ!と膝を打つほど面白かった。
 第2章は、建築系としては既知のことなので一般市民むけかなという印象であったのだが、関連する論考は多いので、もうすこし肉付けしてもよかったのかなという感じ。
 第3章は、ひとつの建築プロジェクトを都市史的な文脈からみるという叙述としては教科書的によく整理されているが、それでも帝都における天皇の御幸、都市の聖地に関する最近の論考、戦争体制・占領体制からの継承/非継承、などともっとクロスさせると興味倍増であったろう。個人的には、競技場とNHKとがひとつの地域を分け合ったことに、スポーツとメディアの相互依存にかんする戦後体制がうかがえるというものであろう。
 なお明治神宮と競技場とが軸線を共有しているという話だが、50㎝ほどずれているがしょうがない誤差として処理されたという話を、ウルテックOBから聞いたことがある。どうだろう。
 第4章もこれだ!レベルに面白かった。とくに建設中の写真などはポスターにして部屋に飾っておきたいほどである。とくに図4-27(ケーブル束ねバンド), 28(メーンケーブル), 37(光が差し込む)など。
 第5章も、建物の使われ方にかんするライフヒストリーとして今後の建築史叙述には重要なものとなるであろう。
 ところが大いに可能性を感じる側面は、むしろより望まれる(現状においてそうなっていない)でもあるから、批判的になるかもしれないが、やはり時間軸のとおり書いた方がいいのではないだろうか。
 つまり「第2章+第3章 → 第4章 → 第1章+第5章」すなわち「文脈・発案→設計・建設→活用・維持管理」という時間順である。理念が萌芽的なものから、計画として立案され、それにより空間ができ、そのなかでの人びとの活動と体験の60年間が展開される。すると私たちはなにを継承しているかがよりはっきりできるであろう。競技場をもたらした理念に、競技場がもたらした体験を、シームレスに接続する、あるいはすくなくとも連続/非連続を論じることはじゅうぶん可能であろう。そうすると1930年代の丹下黎明期から、今の2021年までを切れ目なくひとつの現代史として描ける。
 古くさい表現だが「生きられた競技場」である。これも建築史をなす一要素に昇格させるのである。
 新資料の紹介もあって、つぎの2点を感じた。
(1)写真で紹介さている工事中のようすは、これじたいがひとつのイヴェントであり、完成後の興行とともに高揚をもたらしている。丹下のいう象徴性はそこですでにはじまっていた。
(2)さまざまな興行がもたらす興奮、丹下のいう象徴性であり、観衆がひとつのことを共有し高揚し(デュルケム的にいえば)沸騰するという一体感を得るのだから、ほとんど宗教的次元の心理的できごとである。そこでたとえば60年の施設使用、イヴェントの種類により、沸騰のありようが変化しているのか多様なのかまで踏み込めたら、それが日本国民の精神史となるであろう。
 通説へのイヤミをいうと、丹下健三は国家的な建築家といわれるが、この興行史からはむしろ結果論的とはいえ大衆的、市民的ではないか。国家/資本/市民は排他的3者と考えられていることが多いが、それらは同一物の3側面なのである。
 また管理運営というのは、施設のみならず、活用と施設の総体にかかわるので、イヴェントとの関係は深いはずである。そういう意味でも1章と5章は別々なのだろうかという素朴な疑問である。ひとつのコインの裏表ではないだろうか。
 もちろん豊川さんにおおいに期待するのでつい辛口になる。しかしこの第一人者は、そのうちかならずや、代々木競技場にまつわる1世紀の、より多面的で融合的な大ドラマを書いてくれるであろう。
 最後にご時世的には、びわこマラソンや福岡マラソンがあいついで中止になったりするのはスポーツを支えてきた新聞テレビの系列機構がWEB時代になり滅亡しつつあるからである。大メディア系列とスポーツの二人三脚は終わるであろう。競技場を生んだ構造はなくなるかもしれない。保全のためにはコンテンツ再考が求められるかもしれない。しかしそうなっても競技場は、その空間の豊かさにより、時代の変化を超越するのあろう。