ロバート・マッカーター『名建築は体験が9割』

エクスナレッジ様から送っていただきました。ありがとうございます。

 

すでに結論でもあるタイトルからすると、ソフトな、初学者のための本かなという印象であり、たしかに著者もそう心がけて書いているようである。しかしじつは、広く、深い。

 

マッカーター氏は建築家にして教授職10年というから、研究職を極めたというより、学生との交流をへて、いかなる理念を簡素に伝えるかということに腐心している印象である。

 

彼が対象としているのは、フランク・ロイド・ライト(内部空間、織りなされた空間)、A・ロース(ラウムプラン)、ル・コルビュジエ(自由な平面、建築プロムナード)、そのほかヴァン・アイク、ルイス・カーン(ルームの共同体)らである。すなわち近代建築の巨匠たちである。そして彼らが開発したあらたな空間性が対象となる。

 

ここまでなら常識的なことに触れているだけだが、著者は、「体験=知覚」ということに立脚している点は注目すべきである。すなわち体験とは、5感をもった人間が、歩き、見て、聞いて、温度を感じて・・・などの膨大な知覚作用を総合して、「体験」とするのだが、こうすることで「体験」が漠然とした印象論ではなくなるのである。

 

著者の指摘によれば、エコール・デ・ボザール流の軸線による左右対称の構成法では、「眼と身体の経路」(p.70)はずっと一致したままであるので、深い体験は得られない。ところがモダンはそうではない。・・・この点は重要である。

すなわちぼくなりにいいかえれば、眼は視覚であり、身体の運動はじつは触覚であることを知れば、体験とはそれら諸知覚の総合の仕方にかかわっている。そして「体験とはそれら諸知覚の総合」であることは普遍的であるにしても、その「総合の仕方」は、エコール・デ・ボザール的とモダンでは違っている、ということだ。そしてモダンはモダンの統合様式があり、それは素晴らしいものであるにしても、これからの建築家だってその統合様式を発展させられる、という希望さえいだかせる。

著者はいわゆる現象学系の哲学者、ハイデガーバシュラールらを引用している。そのこと自体は、これまた常套的である。しかし現象学とは、これまた体験や現象を漠然というのではなく、視覚とはなにか、触覚とはなにかを問うた、知覚学でもある。

だからこういうことだ。おもに20世紀初頭において、体験を指標とした建築家たちと、現象=知覚なるものの解明をめざした哲学者たちは、たんに同時代人であったいじょうに、なんらかのリンクがあった。それはたんに、建築家たちが、時代の空気をすっていた、文献に目をとおした、耳学問をした、さまざまであろうが、彼らの設計のために同時代思想についてじゅうぶん敏感であったのであろう。

さらにぼくにとって興味深いのは、著者そのものの立ち位置である。ライトの内部空間意識から出発するということが、ヨーロッパに学びつつも、それを超ええた、アメリカ建築のアイデンティティアメリカ独自のモダニティの、宣言のようにも思える。そうすればライトが「アメリカ建築」の祖であっても、まあ文句はない。であるからこの書は、建築の普遍的理解というより、独自のアメリカ建築文化を構築するために書、というようにもみえる。著者が教育者であることはその状況を示唆しているようにも思える。

そして日本はどうか。日本的なものについての論考はとっくの昔に一段落しているので、最近はそういう論考はないような気がする。日本独自の都市性をもってそうだというむきもあるが、それらはえてして偽悪的であり、普遍性をみずから禁じているふしがある。日本独自であり、かつグローバル市場でも商品価値のある、建築観。建築教育のグローバル化は、そのような商品開発なしに販売戦略をやっている。それがわが国の現状のようにおもえる。