末光弘和+末光陽子『風のかたち 熱のかたち 建築のかたち』など

SUEP.1と2も送っていただきました。ありがとうございます。

《地中の棲処》の内覧会でお目にかかったはずで、このブログにも書いているはずだが、ずいぶんまえのことになってしまった。今では日本各地にプロジェクトを展開し、公共建築も手がけられている。

環境を指標にした建築をつくろうとしており、それを形態に反映することに成功した世代になると思われる。

ぼくなりに建築史の文脈で考えると、古代から環境を考えない建築はないのだが、それでも近代以降のながれで考えてみることが重要である。まずヨーロッパの高密都市で、通風改善のためにボリュームの分節化が考えられたのが19世紀末、空気の流れをヴェクトルで示すこともなされたが、これはあくまで概念矢印。当時は部屋の容積を規準として考えていた。また日照は、結核対策なので、環境というよりは衛生が目的。20世紀の中盤は、大量生産を考えて、環境はむしろ後退した印象。1969年のバンハム『環境としての建築』はオフィスビルのような人工環境の構築を考えており、自然と人工のミックスした環境という概念は薄い。そして一昔前、環境の重要性は認識されていても、古い建築家たちはそれを設計に反映すべき方法論に取り組むことは迅速ではなかったような印象である。

ようやく様式、機能、経済性といった死活的な指標たちと同等なレベルで「環境」を指標とする建築がでてきたということで、はっきりと歴史的な対象としてたちあがったという印象である。それもシミュレーション技術の活用がおおきいわけであるが、ひところ環境工学の分野で、シミュレーション至上主義が批判されていたことを小耳にはさんだこともあるが、空気や熱の流れそのものを設計するという姿勢のなかに、ゲーム性から現実への回帰がなされているのであろう。

一部の学生はさすがにめざとく、今年の卒計でも微風を指標にした風を取り入れる住宅の設計をしていた。ぼくは指標の選択に断固たるものがあったので良い評価を与えたのだが、環境工学の先生はぎゃくに厳しくて、夏の2カ月間の気候しか念頭におかない設計をしてはいけないと、もっともな批判をしていた。

さてこのような環境指向の新傾向を、建築史の立場から50年後ふりかえってどうみえるか、妄想はつきない。まず技術の進歩はあるものの、これは熱、風(空気への皮膚の触覚)、光(眼球の感性)などと五感への還元ということにしたらどうか。感性への回帰である。しかもまさに即物的な感性への。そうするとつぎのフェーズは、これらベーシックな感性のうえに立脚する、より高次な価値かもしれない。それが新しい「美」学なら、よくできた話となり、近代という時代の円環ができるかもしれない。まああくまで妄想である。