松井茂『虚像培養芸術論---アートとテレビジョンの想像力』フィルムアート社, 2021

 松井茂さんからフィルムアート社経由でご恵贈にあずかりました。ありがとうございます。
 テレビが登場した1953年以降の、とりわけ1960年代以降のメディア(テレビ)、アート、建築を横断的に論じている。
 具体的には第一部「虚像培養芸術論」はどちらかというとアートを主軸とし、東野芳明横尾忠則、高松二郎らを論じていれる。第二部「アーティスト・アーキテクトの時代」はおもに建築を論じており、磯崎新、お祭り広場、コンピューター・エイディド・シティなどを俎上にあげている。拙論もすこし引用されている。第三部メディア(テレビ)論が中心であり、「アートとテレビジョンの想像力」では雑誌『現代誌』、テレビ番組《あなたは・・・》、今野勉のテレビ論、などを分析している。
 第一部・第二部のやや謎かけのように思えた議論は、第三部における概念規定により解題される、というような印象である。マクルーハンの「メディアはメッセージ」(メディアが伝える内容よりもメディアそのものがメッセージの意)を、「『何を』ではなく『いかに』」(p.251)といいかえつつ展開していくくだり、テレビのハプニング性、免疫/公共性、免疫/共同体、テレビの思想/思想としてのテレビなどである。第八章「マスメディア空間における芸術表現と情報流通」は、清水幾太郞、南博らによる創生期のテレビ論などがまとめられており素人には勉強になる。アメリ占領政策の延長としての日本のテレビ機構という視点もそうであろう。
 さてテレビ登場のすこしあとに生まれたぼくとしては、人生=テレビ時代のようなものだから、重要なテーマであるはずである。個人的なテレビ体験としては、60年代のオリンピック、安田講堂攻防、羽田デモ、佐世保デモ、70年代初頭の三島事件あさま山荘事件などは、編集せず実況中継されたので生々しかった。ぼくのテレビ体験は、自宅の居間と大事件の現場が直結されることであった。ところがよくできたハリウッド映画みたいといわれた湾岸戦争のはるか以前から、テレビは疑って見るものというのが常識となっていた。マスメディア全般、フェイクは最近の言葉であるにしても、偏向、編集、切り取り、演出などが施されるものであった。さらにインターネットにより古典的メディア時代も終わりつつあるという潮目でもある。
 ところがそういう素朴リアル/フェイク論よりも高次元なところで、著者はテレビ番組《遠くへ行きたい》(pp.262)を、演出と編集の、故意による欠如あるいは失敗により奇妙なリアリズムが生まれる事例として紹介している。つまり故意に「何を」はなりたたない状況にして、「いかに」を紹介しているのである。テレビはむしろ「いかに」伝えているかを露呈することで強いリアリティを生むのである。
 さて建築はどうだろう。磯崎新の見えない都市、プロセス論、シンボルの布置としての都市、色彩建築、「情報空間」、お祭り広場、コンピューター・エイディド・シティが、メディア(テレビ)のありようについての理解のうえにたっていることはそのとおりだ。ネオ・ダダのアーティストたちなどと交流があったことも背景の説明ではある。
 それももっともだが、磯崎新はたんにメディア・コンシャスなのではなく、この建築家はまさにメディア的な構造をもっていたことを、著者は、全体として指摘しているのだと思う。まさに「『何を』ではなく『いかに』」である。つまり『何を』的な志向性は、目的論的、イデオロギー的、個別案件的なものとなろう。磯崎はときどき「テロス」(目的、完成)の不在をいうのはそういうことである。テロスの反対が「プロセス」であり、事態はアルゴリズムの自己運動として進展する(建築家はそれを「切断」する)という発想である。これが著者のいう「いかに」に親和的だと思えるのである。そこから本書の表現をもじれば、磯崎が表明してきたのは「建築の思想」ではなく「思想としての建築」(八束はじめ的な意味とはすこし違う?)なのであろう。
 やや控えめに「日常としての共同体」にとってテレビは「ある種の免疫」だと締めくくられている。もともと日常の構築である建築は、それと架橋できるのだろうか。磯崎の例からすれば「いかに」の論理をより発展させることであり、そうであればぼくも興味がわく。