磯崎新『日本建築思想史』

著者様よりいただきました。ありがとうございます。

よくできた本で、かつての和様化論をバージョンアップさせ、25年周期の近代日本建築史の素描を提供している。

最近の著作を拝見していると、磯崎さんは自分語りをずっとしており、自分をアーカイブ化しつつ、若い世代を育てようとしていると拝見した。繰り返しも多いのだが、しかし内容はしだいに深化し、小さいが新しい発見もあり、飽きさせない。一歩誤ると暴露本的になるかもしれないような内容であっても、歴史の構成要素として役立ちうるようなものばかりである。

磯崎的知性はなにかをつらつら考えてみるに、分類法的であるということである。『日本の都市空間』における都市計画4段階発展説いらい、みごとな分類を展開しているし、今回は4層の文化的地層(古層、江戸、近代、新世界)である。彼は、自分にはアカデミックな探究には興味ないと主張されるのだが、これはこれでじゅうぶん学者的である。むしろ学者さんがすることくらいできるよ、というっているように聞こえる。そこで先日お目にかかったときに、場の空気もあって、磯崎先生は・・・と言ってみたら、じつにすんなりした。もう磯崎先生でいいかもしれない(が結局、空気に従うのである)。

中身のディテールにいちいち触れないし、こういう読書は、読みつつふつふつと湧いてくる妄想のほうが面白い。堀口捨己「非都市的なもの」「日本的なもの」とか、伊藤ていじの「間」概念などは、それを考えつくまでの助走と研鑽もあったであろうが、なによりあるとき、アプリオリに現前にくっきりみえていたヴィジョンのようなものであろう。『日本デザイン論』の「間」論を再読したときの印象だが、とにかくはっきり見えている、しかしいい言葉が見つからない、その葛藤があのこむつかしい文章を生んだのはあきらかなように思える。

発展段階論というのは、やはり近代日本という文脈では、結果的にクリティカルであった。なぜなら基本的に、近代/反近代という二元論に支配されたことが日本近代の最大の問題なのである。このことの重要性にはだれも気がつかず、あいかわらず二元論が再生産されつづける。しかし磯崎さん、失礼、磯崎先生は反近代か、それもあるが非近代もある、さらに前近代も、というように崩し始める。つまり彼は「二元論崩し」をやっているのである。このことに気づこう!

二元論的日本近代にたいして「二元論崩し」を徹底することについては、賛同したい気持ちである。さらにいうと、あくまで自由人の立場を貫こうとすることは、やや自作自演的なムードはするとはいえ、前向きにうけとれば、第三者の立場にたとうとすることだし、それは社会学者がいう第三者の審級というものを獲得するための戦略にようにも思える。

ただあえて批判すると、磯崎新が建築史を書いたら、というような企画は、すこし磯崎依存がすぎはしないか。歴史家はあくまで批評家であり、建築家はそうではないと彼自身も指摘していた。横手さんの世代は、彼の言葉をアーカイブしてゆく世代的ミッションがあるにしても、すこしは挑戦してほしいし、伊藤ていじ大先輩ももっていた建築的ヴィジョンにおいてそうしてほしい。

それで結局、磯崎的、堀口/丹下/磯崎/妹島の輪廻転生とはなにかということである。三島由紀夫豊饒の海』は言及されているし、ぼくも気になっているが、年とって読み返すと、虚無という運命との和解のようにも読める。それがぞっとするような空虚だともただちには思えない。三島のばあいは仏教的世界観が構図として描かれており、その虚構の枠組みが最後には意味をもつこともある。では時代的切断によって区切られた25年ごとの背後に、どういう宇宙があるのか、がつぎの問いではある。