阿部成樹『アンリ・フォシヨンと未完の美術史』2019

読書感想文です。
アンリ・フォシオンは建築史学においても『西洋の芸術(1.ロマネスク、2.ゴシック)』などの著作を、翻訳をとおしてよく知られていた。かなりまえ教会建築を勉強してみようと思い、文献をあてどもなく読み進めていたときであった。戦前からのフランスの聖芸術運動のことなどをかじっていた。その運動のなかでフォシヨンが重要な役割を果たしていることを知った。亡命先のアメリカで客死せねばならなかった運命もとうぜんそこでまなんだ。その彼の『形(かたち)の生命』を読んだときに、宗教建築にまつわりぼくが感じていたいろいろな問題が一挙に見通しがついたような気がした。
 ぼくなりにいうと第1の近代(1830-1930)では建築学は、科学化し、様式を基礎とする建築史学でも折衷主義的設計においても、構造工学においても、機械的な演算の結果としての建築が思念された。そして必然論的な歴史的プロセスにおいて、その先端で、建築はつくられるという考え方が基本であった。歴史とは法則に従った必然論的な因果関係をはかることであり、それが科学的と考えられた。
 そうした文脈で、フォシヨンはそれまでの研究を踏まえながら、第2の近代(1930-)のはじめに『形と生命』(1934)や前述『西洋の芸術』(1938)などを出版する。その歴史観はいわゆる科学的な必然論的なものではなかった。かたちにはそれ固有の、内在する力、エネルギー、生命がある。それはリニアで不可逆的な時間からは自由であり、時間と場所を超越することもできる。
ところがその『形の生命』はむしろ小冊子といってよく、著者の豊穣な思想を描くにはあまりに小スケールであった。読者としてもその点が不満であった。
 著者はおそらくそういう点への配慮から、フォシヨンと同時代の、理念と方法論を共有していたであろう、多分野の学派や研究者との、思想の反映あるいは交換として、フォシヨンを描いてゆく。
 日本人芸術家との交流はともかくも、ダーウィンの進化論の肯定的受け容れ、イポリト・テーヌの環境決定論の否定、ラスキンやモリスの「手作り」概念との関連、社会主義運動への参画、リヨン市長エリオが彼を美術館館長にお任命したこと(p.87)、エンゲルスの思想との類似性、歴史学者アンリ・ピレンヌとの関連、ドイツ問題とエミール・マール、新古典主義ダヴィド課題(p.160)、ドイツ近代建築の生硬さ批判(pp.158-)、アナル学派との関連、アンリ・ルモニエ(p.177、個人的に感慨深い)、マルセル・プルーストラスキン『七燈』、デュルケム、文化人類学者たち、マルク・ブロック、・・・。
 たいへんよく詳細に調べられている。偉大な学者ほど孤立しているのではなく、ゆたかなネットワークのなかにいる。だからフォシヨンをその外部から描いてゆくことは方法論的にも正しいであろう。また読者に当時のフランスの学会、学際のすがたを雄弁に説明してくれることはありがたい。
 こうした叙述の旅は、『かたちの生命』という小作品は「一枚の凸面鏡のように、同時代の様々な思考の影をみずからのうちに映し出しているように思われるのである」(p.336)という率直であり、謙虚でありつつ、これ以上ないほど的確な、著者の方法論の説明となっている。学界、論壇を描くことで、ひとりの人物の思想を推し量るのであるが、それは形が生命をもつというテーマがいかに共有されていたかをも示す。
 そのフォシヨン紹介からすると「終章」は後日談のようなものであるかもしれないが、これもまた大きな問題提起となっている。
 フォシヨンはアメリカに亡命するのだが、それは一種の亡命学会にして亡命政府の一部のようなものであり、ドイツ問題を抱えたまま、対独対策をアメリカにおいて展開するようなものであった。そして当時のアメリカといえばワールブルク学派もそのように亡命していたのであった。そこに今のアメリカ建築論壇にも内在する、フランス的なものとドイツ的なものの二元性が垣間見える。当事者たちにはそんな対立はなかったのしても。
 「嵐」のなかで人種主義と全体主義に反対し続けたフランス人学者たちは、たほうで自国の植民地主義は疑わなかったことに、著者は留意する。それにしても、これら歴史学者や人類学者らは、その学問的立場から対独的であり、人間的な自由を求める学問をめざしながら、まさに歴史と機構のメカニズムのなかで必然論、決定論的につぎつぎとナチに処刑されてゆく(知られた話ではあるが)。そのことをある意味淡々と著者は報告してゆく。いちばん書きたかったのはむしろこの「終章」ではないかとも思える。
 そうした必然論からの解放が、昨今では進みつつあるのではないかという印象であるが。さてどうするか。