『聖なる空虚と近代都市の祝祭』すなわち空白の快楽?

というエッセイを書いた。atプラス25、2015年8月8日発売である。

これは磯崎さんコーディネートによる特集「2020年東京五輪に向けて 東京祝祭都市構想」のなかの一稿である。

このプロジェクトそのものは磯崎さんがすでに予告していたが、それが具体的なプロジェクトといくつかの論考をともなって公表された。

プロジェクトは、もちろん2020年に予定されている東京オリンピックを念頭においたきわめて適切なタイミングのものであるとともに、磯崎さん固有の文脈においてもとても重要なものである。たとえば、広島ピースセンターの体験、大阪万博におけるお祭り広場、つくばセンタービルにおける国家の消滅と虚無の広場、都庁舎コンペにおける広場としてのアトリウム、など。今回のプロジェクトはそれらと同じ文脈で発展的に論じられるものであろう。

論考においては、かつてぼくが「母なる日本」と呼ばさせていただいたものが、深く、広く、展開されている。そしてその絢爛たる理論構築を貫通して、磯崎さんの体質のようなものが、つよく感じられる。空白の恐怖ならぬ、「空白の快楽」である。これからも磯崎論を展開しようとする場合、不可欠の視点のように思える。

ぼくとしては昔やった広場論の続きを考えて書いた。そもそも20世紀の広場は、論において虚構であり、実態において空疎である。だからだめだというのではない。そこにおいて、20世紀的な空虚を味わい尽くすべきなのである。ぼくはこの点については、磯崎さんの視点はもっともだと思うし、その方向で論考してみた。ただし建築史的な文脈というぼくの関心にどうしてもひきつけてしまうので、クライアントにはあまり忠実ではなかったかもしれない。とりえあず近代の宗教性との関連で整理してみた。オベリスクなどという「役物」もいれてみたので、読んでください。

編集の妙というか、連載『Dの研究』の「宗教と社会主義」ともしっかりリンクしているにように思える。トーテム概念の重要性は理解できるが、それが原父殺しではなく原遊動性においてだという論点からは学ぶべきことが多そうである。首都における無場所性こそ、その遊動性を躍動させるのではないか。だからこそ空虚が生まれる。ただそれにしても、19世紀末から20世紀初頭にかけて宗教概念そのものが変革したことはおさえておこうと思う。マルクスが宗教を否定し、フロイトは宗教のからくりをあばいたとはいえ、そのことによってむしろ宗教はより高次に格上げされたようにも思える。そのことは建築や都市と無関係ではない。