偶有性操縦法

ぼくの今年のPC運は最悪である。4月、自宅PCが壊れた。泣く泣くお小遣いで直した。8月には、つい最近組み立てたばかりの、大学のPCが壊れた。これでも自作派なので、パーツを吟味し、発注、納入、組み立て、インストール、登録などと気が遠くなる。その間、授業用のノートPCだけで仕事をする。綱渡りである。多くのメールが蒸発した。・・・MSDOS時代の旧式PCはなんと7年使い、壊れなかったが、陳腐化したので買い換えた経験があり、PCなど無茶しなければ壊れないと思っていた。しかしPC不調もこの偶有性とかいうやつなのだろうか?

磯崎アトリエから現代思想10月臨時増刊号(総特集:安保法案を問う)が送られていた。ありがとうございます。ずいぶんまえに届いていたが、出張などで、気がつかなかった。

磯崎さんの論文『偶有性操縦法』は、安保法案と新国立競技場問題を、構造的にパラレルなものとして論じたものである。「偶有性」の定義はさておき、磯崎さん的文脈では、これまでの決定不可能性論、そして和様化論というふたつの理論の交差として位置づけられよう。

さらに具体的には、江戸時代から日本にはある「談合」という問題と、80年代の日米構造協議から派生した諸課題、それへと反応するかたちで「ハイパー談合」とよばれる「官民談合」なる巧妙なシステムが、このコンペにおいて破綻を見せているという指摘である。

民主党の議員からはマネジメントの不在などと指摘されているが、あるいみ隠れたシステムのマネジメントを暴いて可視的にするなどと一直線にもいきそうにない。談合というのはダーティだが賢いところに、意味がある。ところがダーティかつ不器用は、破綻である。マネジメントは愚直でも正直、でもなんとかなりそうである(ならないか?)。

それはそうとして「旧談合→A国論理の介入(あるいはグローバル化)→ハイパー談合→ザハ排除?」という今回の一連の事件について、多くの論者の意見はさまざまである。談合がいけない?談合をうまく操作できないのがいけない?グローバル化がいけない?グローバル化に対応できないのがいけない?ザハ案がいけない?ザハ排斥がいけない?・・・などと記憶にあるだけ書き連ねると、結構、論点はある。しかしたいした論争はおきない。これは建築界の人びとがお互いに紳士になったからで、個人批判で挑発しても、論争にはならないからでもある。ただそれにしても論点はどこか?

磯崎さんじしんは「ハイパー談合もしっかりマニピュレイトできないのか」とお嘆きなのであるが、日本の建設技術にたいする国際信用が堕ちることをいちばん心配していらっしゃる。これは建設産業の国際参入に不利であり、大きな損失になるであろう。ではこの信用喪失があるとあるとすれば、その責任はどこか?信用を傷つけられた技術とその組織そのものは被害者である。では官か?建築家か?建築史家か?過大に信用したことに問題はなかったか?

それはそうと新国立競技場を思想として問うということも、なされていないそうである。難儀である。