書評・磯崎新『瓦礫の未来』と預言者論

『建築技術』四月号に掲載された書評、再録します。自注も。そして「磯崎さんは預言者だ!」論。

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始まりも終わりもないプロセスの自律
『瓦礫の未来』磯崎新:著
土居義岳(九州大学名誉教授)

 磯崎新さんが青土社現代思想』の2016年5月号から2019年3月号までに連載したものに加筆修正したものである。1回の逆転をのぞけば、すべて連載順に並べている。連載を開始する時点で構想ははっきりしていたわけである。
 四部構成である。すなわちザハ・ハディド、(トルコ東部からイランとイラクにまたがる)クルディスタン、(中国四川省大邑県の)安仁鎮、(北朝鮮の)平壌である。四つの対象、すなわち人物と場所は、いずれも非西洋である。もともと磯崎さんはおもにアメリカ経由の諸概念と、日本的な伝統の近代的な理解という二本柱で建築を論考してきた。しかしここ20年は中国などの非西洋圏で活動している。かつて私は父なる建築と母なる日本、すなわち西洋と日本の二元論という観点から分析していた。それも四半世紀前のこととなった。今は3本目の柱をつくることで、安定した鼎立の構えをつくっているといえる。より普遍的な建築概念が期待されよう。
 これらの4つの出発点からはじめながら、しかし、放埒な連想ゲームのように話題を展開してゆく。たとえばオベリスクにしても、ワシントン記念碑からはじまり、トーチ(松明)を導きの糸として、主体思想塔、2001年宇宙の旅、『魔笛』闇の女王、東大寺大仏殿、シュペア、宇津保物語、天安門事件における自由の像などと時空を駆け巡り、平壌の記念碑空間には死がない、という深い認識にいたる。
 語りの基本的な構造は二重螺旋である。磯崎さんのどこでなにをしたという具体的な体験。それとともにしかじかの場所と時間において発想したことが記録され、また事後的に検討したことも追記される。さらに彼が一貫して追及していることがリフレインにように執拗に述べられる。そのふたつの系列がたがいに刺激し合あう。すべては物語である。自由な連想により織られた物語である。基礎、柱、壁、そして屋根というように論理的にしっかり構築されたものではない。
 それはネットサーフ的な読解にいざなう。連想、類推、比喩は限りなくつながり、読みは連鎖してゆく。コンパクトな単文が、リズミカルに、途切れることなく書き継がれてゆく。その波に逆らわず、その流れに身を委ね、その水温を感じとる。それは読解でありながら、ひとつの体験であり、ひとつの悦楽である。それは磯崎新その人を体験するという、スリリングなものだ。
 「水」という伏線も魅力的だ。先の津波、創世記の大洪水(アララット山)、宋の首都開封安部公房の第四間氷期柳田国男海上の道、フロリダの湿原、都江堰、琵琶湖疎水など、水は世界の基底として論じられる。光と闇、炎にも同様な連想的な思索をしている。
 しかし「巨大数」が通奏低音にして主題である。見えない都市というテーマを格段に発展させ、金日成に作戦家=建築家を見いだす。ネグリマルチチュードにはまだ人間主義の残存がみえる。そうではなく、目的や主題が消失したあとの、すべてを数に還元してしまうという巨大数なのである。それはまさに、わたしたちの、21世紀の主題である。磯崎さんはそれを経験の厚みにより浮き彫りにする。
建築の、そして世界の根源を目指す磯崎さんの物語はまだまだ続く。

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自注(2020年7月13日):

 内容は添付のとおりであるが、愚論を再読してあらためて感じるのは「磯崎さんは預言者だ!」である。本書は全体としては、非日本・非西洋のテーマについて彼の体験や回想を整理し直してのべたものである。しかし場所、時期ごとにされた彼の膨大な体験は、こんどは彼が設定するテーマごとに再編成され、いわば錬金術的なプロセスにより変容されて、そのあげく、体験談は預言へと変換される。そしてこの変換はどのようになされるのか?
 そこで磯崎預言を読み解くための、土居構図として、きわめて古くさいものをあげておこう。すなわち四元素(土、水、空気、火)である。
 土は、変質し石となる。それはオベリスクにもなる。であるから当然ワシントン記念碑を連想させ、そこから権力表象論になる。さらに『瓦礫の未来』には書かれていないが、土は、地震、土砂崩れ・・・でもあるから、すでに日本の未来を預言している。
 水もまた世界の基底であるからこそ、その暴れが大雨、水害、洪水、津波などとなる。創世記の大洪水から書き起こすあたりが磯崎さんの壮大さだが、今現在の日本(熊本県など)や中国やヨーロッパなどを含む地球上の水害がすんなりこの場所にはいってくる。オランダやNYでは水害都市計画がなされているから、すでに現実なのだが。さらに想像をたくましくすれば、いわゆる巨大数は、情報の海だとすればこのカテゴリーであろう。
 空気というカテゴリーには、台風、竜巻などが想像される。また飛沫や空気感染がここにくるとすれば、目下世界的な危機となっている感染症はそうであろう。気候変動、気温上昇、PM2.5、大気汚染などもこの範疇である。
 火は、一般的な火災、より狭義には原発事故、さらにはきわめて広域な山火事、などを意味するであろう。さらにいちばん典型的なものは熱い戦争であろうが、こればかりは起こって欲しくないものである。しかし核武装、ミサイル開発などで日本は悩まされている。これは潜在的なものとしての火の脅威というものであろう。
 磯崎さんは、感染症禍が本格化しはじめたころ感染都市などといった議論をしていた。洪水論も球磨川氾濫の預言にも思える。まさに預言者。ではいやな事件で世の中が動揺しないようにするには、磯崎さんには不吉な預言をしないでとお願いしようか、などと考えたくもなる。
 とはいえ、逆に、預言はどのようにして可能か。磯崎さんを素材にしてそんなことを考えてみたくもなる。つまり預言とは未来をその目で見ることではない。未来などというものは端的に存在しないし、そもそも時そのものは存在しないという説もある(哲学者がそういっている)。そうではなく、人間は神ではないが、神のごく一部をわかったという立場から、世界の基本構図を見る。すると世界のなかのさまざまな出来事は、その基本構図のなかのたくさんのバリエーションのひとつであろう、するとこれから発生するだろう出来事がおこるその範囲くらいは想像がつく、というようなことであろう。すなわち事件発生の場を認識しておかねばならない、ということである。「場」を推測すれば、事件はおのずと見えてくる。
 四元素はたまさか思いついた愚論ではある。だが考えようによっては、古代ギリシアの自然学はまだまだ捨てたもんではない?