難波和彦『新・住宅論』放送大学叢書(2020)の読書感想文

 難波さんより送っていただきました。ありがとうございます。
 一読して「近代住宅の残像」という言葉が心中に浮上してきた。
 本書では、いわゆる建築の四層構造と戦後日本とでマトリクスをつくり、そこに多くの項目を適材適所にプロットして、わかりやすい構図を描いてる。理論的な「小さな家」「生きられる家」も面白いが、圧縮しすぎていて語り不足で、残念ながら評論するに覇気がでてこない(のでおまかせします)。全体としては実践的な建築家の自画像を、戦後日本の住宅建築へと拡大しつつ、最後にやはり理論と実践の統合体としての建築家自画像へと回帰するという、わかりやすい文献である。
 ちなみにぼくは1990年代中盤に「jt」誌の月評を担当していたあいだに、箱の家の第一号を見学するという僥倖を得た。そのとき編集の大森さんらとともに、難波さんにその住宅を丁寧に紹介していただいた。そののち雑誌における書き物などから、彼自身が語っていたことを思い出すと、次のようなことであった気がする。つまり、箱の家シリーズのクライアントはそもそも家族の形態が崩壊しかけている例が多い。そうした、理想化された近代家族ではなく、ありのままの現代家族が、この住宅にすむことで近代家族の輪郭をたもつことができる。などということであった。
 これは受け取りようによっては、山本理顕のいうように家族形態があってそれに適合する空間が設計されるのではなく、空間形式があってしかるのちにそこに住む家族形態が実体化されるという論理の組み立てと相似である。
 難波さんはおもに技術面からアプローチし、山本さんはおもに家族論・共同体論からアプローチするとはいえ、それらは典型的なモダニスト的なものといえよう。
 難波さんは四層構造についてすでに詳細な論考を残しているので、それを説明するのにいまさら多弁を要しない。ウィトルウィウス的な用強美に+αしたもの、日本的な構造・環境・計画・歴史意匠の講座制にも相当するもの、という説明である。日本的な講座制建築学に引き寄せるのは個人的には好きになれないが、ここではいいとしよう。
 さらに主として日本の戦後を扱っていることは大きな特徴であり、その点でもモダニスト的であるといえる。基本的には、日本戦後は戸建持家政策でやってきた。たしかにそうではあるが、回顧してみるに、この核家族を基本とする住宅政策は強烈ではあったが理念は短命でもあった。戦前のいわゆる封建的な家制度、家父長的なものを否定して、それにかわる家族愛を絆とする民主主義的な核家族という理想像なのではあった。しかし黒沢隆はいちはやく個室群住居概念の提示により批判するのだし、1980年台には映画《家族ゲーム》により漫画化されるし、大澤真幸は『虚構の時代の果て』のなかでは、ごく短い理想の時代、夢の時代として暗示されている。すなわちごく短い賞味期間しかなかった。
 もちろん郊外住宅地の爆発的な形成というかたちで、住宅エンジンなどとも呼ばれながら、経済的にも大成功を収めながらも、その理想や内実はまさに内部から崩壊してゆき、市民の夢や理想と言うよりは、住宅産業、経済そのものの自己運動として虚無の発展をとげたものであった。
 そうすると2020年の時点から回顧すると、核家族/戸建持家をすんなりと信じられた時代よりも、それを批判し疑い続けた時代のほうがずっと長かった。その間もnLDKが批判されつつ膨大に再生産されつつあったのである。
 20世紀初頭ヨーロッパにおける最小限住宅の理念が、終戦直後の池辺陽の立体最小限住宅となり、それへのオマージュ、変奏、本歌取りとして難波さんの「箱の家」シリーズがあるわけだ。そしてこのシリーズはいまや四半世紀に及ぶのである。それは建築史的にはどのように位置づけられるだろうか。それはあくまで近代の理想に固執しつづけることで、逆に、時代や社会のそこからのズレを顕在化させるような、そういう批判性を確保する立場である。あるいは矛盾する言い方をすれば、近代批判を展開しながら、しかし帰る場所は近代しかない、そういう世代である。
 以上の意味から、本書の要約を試みるよりも、本書にはなにが書かれていないかを探ったほうが、その特性が際立つ。
 まず「人間」が描かれていない。数カ所で「労働者」の住宅や都市という言葉が散見される。もちろん政治的・イデオロギー的な立場から、20世紀においても労働者/資本家という言葉は使われつづけた。ILO等では戦後もこの用語を使い続ける。しかしこと住宅政策においては、19世紀に膨大に建設されたまさに労働者住宅にかわって、それらではない、より普遍的な市民像を念頭においた、すなわち階級差をなるだけ強調しない方向に進んだ。これが20世紀初頭の公共住宅政策というものであって、その20世紀的な市民像とその生活像を模索するなかで最小限住居の概念も提案されたのである。すなわち事実としての労働者住宅と、理念としての脱労働者住宅像への模索が20世紀住宅の大きなモチベーションであった、が私見である。すると漠然と20世紀都市の労働者たちといわれると歴史認識としてはいいのかという印象を強くする。
 たとえば近代住宅の起源としてよく言及されるのが、イギリスの万博における労働者住宅案である。なるほどそれはnLDKに近く、そうかなと思わせる。しかしこの理屈には根本的な欠陥がある。すなわちそれは思念として表明されたプランであって、現実の労働者住宅ではない。では理念としての理想的労働者住宅の提案は、そもそもなにに基づいていたかということである。事実はシンプルである。いわゆるnLDKの原型は、19世紀前半にはブルジョワの都市住居として成立していた。そこには家族イデオロギー、母性イデオロギーもすでに存在していた。
 すなわち19世紀ブルジョワ都市住宅を簡略化したものをいわゆる労働者たちにあてがおうとしたのであって、そのときに家族イデオロギー、持家政策もセットであった。だから持家政策とは労働者・勤労者の(プチというより)微小ブルジョワ化であり、有資産階級に底上げすることで社会の安定を図るものであった。このあたりは19世紀後半、ヨーロッパはひととおり体験している。
 では「箱の家」の歴史的起源はなんであろうか、そこには誰が住むのであろうか?ちなみに核家族というのは制度なのだろうか。「核家族」とは文化人類学上の概念であり、都市化にともない「核家族化」と呼ばれる現象はあったが、それは法制度で定めた家族形態であったのだろうか。
 同様に「社会」についてもごくわずか言及されるのみである。このあたりは山本理顕の地域社会圏論にまかせている印象である。
 山本さんについても90年代から作品を拝見しており、彼じきじきに案内していただいたことは光栄の極みであった。ただそれにしても、そうした彼のアプローチからすれば、やがてそれが社会学的な問題提起にいたり(すなわち伝統社会を解体して社会を構築した19世紀)、その根底に宗教政策を改めることで世俗と宗教との距離をとることでやがて両者を分離した、やはり19世紀の諸問題に導かれるのはまさに理路整然である。『都市美』などにおいて宗教学者と意見交換をするのもまたごくすんなり演繹できる理論的帰結であって、驚くことでない。宗教学者は、宗教と社会の関係変化ののちに、いかに社会が再編成されるかまでも視野に入れている。社会学者は、社会学が社会という概念を構築したと主張する。とりわけ産業革命、政教関係の変革ののち、社会を再構築しなければならない段階にいたって(西洋だととくに19世紀)、社会学は切実な社会再構築プログラムのために設立されたのであった。
 難波さんはブログのなかで、土居は『建築の聖なるもの』を書くためにカルロ・ギンスブルグ『政治的イコノグラフィーについて』を読んだのか、などとへんなことを書いている。ぼくは2017年にすでに脱稿していたので、そのあとに出版されたものを参照できるわけがない。さらにいえば文化論全体のなかで宗教の重要性に気がつくのに、ギンスブルグに教えてもらうまでもない。そもそもフランスで19世紀以来、宗教と世俗社会の深い葛藤があったというようなことは常識である。日本なら磯前順一や伊達聖伸らによる根底的な宗教学(内部)批判を十数年前からぼくは認識していた。それらはフランス文化論では当たり前のこと、基礎の基礎だから、ぼくは普通に(フツーに)そうしただけである。
 すなわち山本さんも難波さんもあらためて宗教的なものの重要性に気がつくのはご同慶の至りなのであるが、それはそもそも彼らがモダニストであるからである。ちょうど戦後の公団住宅の標準設計では、床の間や神棚など儀礼的なもの、宗教的なものは排除された(それらを復活せよと主張しているのではない)。宗教も象徴もない、脱色された無機質の空間。それがモダンである。そうしたモダンの世界を初期条件としては疑わず、そのなかで生きつつ、批判を展開し、建築するのが、モダンの建築家たちなのである。
 だから彼らはいまさら驚くかのように宗教的なものに触れるのである。そのような構図があるとおもって本書の各論を考えるとひとつの思考パターンがある。すなわち筆者はあくまで戦後日本の空間にいる。もちろんそこに至る歴史的文脈は認識している。ただ書き方が、じつはこうだった、じつはああだったと、演出にもとれるような種明かしとして、遡及的にピックアップされる。文献を編集するためのわかりやすい構図と思えたものは、じつは本質的な存在の構図であったように思える。遡及的であるのはあまり歴史学的な書き方とはいえないが、あくまで実践的な建築家の実践論なのであろう。さらにいえば1940年代日本生まれの建築家の特質がよく理解できる文献である。
 そのような意味で「近代住宅の残像」を生き抜くことが世代的な生き様なのである。それはひとまわり若い世代のぼくなどからすれば、及ぶことのできない次元である。ただそこでの歴史の皮肉なのは、「残像」と思えたものがじつは本質かもしれず、それを生き抜くことが歴史を生き抜くことかもしれない、という逆説である。ぼくはモダンとの距離がありすぎてとても真似できないが、最大限の敬意をはらうこととしよう。
 最後に、これは決して皮肉ではないが、四層構成にはそれなりに普遍性があると思う。最近気に入っているの古代哲学における四大元素(火、風、土、水)とか、パラディオの『建築四書』(基礎理論、私邸、公共建築、古代建築)などは、仮のフレームワークがじつは実効的で普遍性があったなどということになるのではないかと思ったりもする。