『磯崎新と藤森照信の「にわ」建築談義』

ずいぶんまえにいただいたのですが(ありがとうございます)、めまいの症状が続いていたので、そのあたりに置いたまま忘れていた。めまいがして病院で薬を処方してもらったりもした状況であった。

 

再録された論文にあるように、磯崎さんの「庭=海」論が全体の背骨である。海は、いわばコスモロジーであり、宇宙、世界、彼岸などをあらわす概念である。その基本をあくまでつらぬく磯崎さんは、やはり大陸的発想の人なのだろうと思われる。いっぽう藤森さんは、言葉としては彼岸的なものに重心を置いているように感じられる。どちらも庭の根本的意味を探究している。

 

磯崎さんと藤森さんは、作風こそ違えど、異形を処理し、手なづけるのだが、細部の操作というよりも新しい観念の開発によりそうしているようなところがある。ものだけにこだわるのではない。

 

こういう自然との関係のとりかたを、たとえばヴォリンガーならどう形容するのだろう。人間と自然は、まったく敵対的というわけでもないし、和辻がいうほどかんぜんに親和的というのでもない。人間と自然は、ある特殊な対話をするのであろうし、それが儀礼、儀式となり、ひとつの虚構、ひとつの「つくりもの」とふたりがよぶものとなる。それはヴォリンガー的類型を逸脱するのかもしれない。観念を自然へと投影し、リアルな自然と、フィクショナルな自然の二重構造をつくるのである。

 

あるいは20世紀初頭の神社建築論にひきよせれば、神社の神聖さは、建物そのものよりも、その背景の、その周囲の、森などに由来するという近代的観念ができた。それは先人たちが近代初頭になした観念論的虚構でもあった。その文脈では、ふたりの合意点、すなわち建築はベタな人為であり世俗であり、庭はメタ自然であり神がかったものであるという共通認識は、まさに近代的な発想とはいえるであろう。

 

ただそれにしても「にわ」とその類概念「つくりもの」「なまもの」などをそろえて建築を相対化して論じる磯崎さんと藤森さんは、いわば建築の「外部」をたくみに用意している(していた)と指摘できそうである。それは方法論的にも、戦略的にも。そしてふたりの対話は、それこそ建築業界的な世界と、個人的生き様の世界とが、たがいに浸透しあう領域のなかで、つむがれてゆく。味わい深い。