サン=ジル修道院(南フランス)と西洋建築の正史形成について

(1)サン=ジル修道院教会堂(南フランス)の謎
  学生時代、建築史を志したとき、まずはペヴスナー『ヨーロッパ建築序説』を読みました。そこで2章「ロマネスク様式」で紹介されているサン=ジルの写真をそこそこ気にいりました。扱いも立派。そこで本文の説明を読もうとしましたが、巡礼ルート沿いの建築として登場しているだけで、ほぼ説明なし。なぜだろう?という不思議がずっと残りました。
(2)サン=ジル修道院
 1983年からフランスに留学したので、とりあえずすぐ見学しました。彫刻は充実していたので写真もたくさんとっています。

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 修道院そのものは6世紀から15世紀にかけて段階的に建設。ローマ教皇が直轄する重要な修道院であった。ファサード彫刻群は1120-1160年。
 1840年に歴史的建造物目録に登録。1842-68年に修復。ヴィオレ=ル=デュクが設立に尽力した比較彫刻ミュジアム(設立は1882年とある、現建築遺産都市、シャイオ宮)にレプリカが展示されている。
 タイミング的には、19世紀当初から重要視され、修復され、それが完了してほどなくレプリカが中世彫刻観に転じという、とんとん拍子の出世。1998年に世界遺産
 日本人にはあまり知られていない物件だが、とにかく中世彫刻の目玉。
 さらに西洋建築史がいかに叙述されたかについてある見通しを与えてくれる。

(3)ヴィオレ=ル=デュクの比較彫刻ミュジアム(現シャイオ宮)、パリ、
サン=ジルの彫刻群のレプリカがここに展示された。写真はパリの建築遺産都市のサイトからお借りしました。
https://www.citedelarchitecture.fr/fr/article/sculpture-monumentale
しかられたら消します。
 1889年にジャン・プザドゥによりプラスター成形と説明されている。
 修道院ファサード全幅ではなく、あくまで彫刻の復元ということがわかる。
 なぜこれが西洋建築史叙述の形成にとって重要か?

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(4)カーネギー美術館(ピッツバーグアメリカ、1895年)
 1999-2000年、文部省の在外研究のおかげで、10年ぶりに海外にでかけ、フランス、イギリス、アメリカというありきたりのルートをたどりました。
 ピッツバーグに数日いたのはライトの落水邸でもみとくか、という気楽な気持ちからでした。カーネギー家については常識ていどは知っていた、くらいです。ところがそのザ・カーネギーカーネギー博物館、美術館・・・)の建築ホールをみて、サン=ジルの謎が氷解したのでした。
  このミュジアムのなかにハインツ建築センターが1890年に設立され、ドローイングや石膏模型など6000点の収集がなされた。とりわけAndrew Carnegieが、おそらく10年ちかくかけて、建築ホール(1907)をつくった。専門家の推奨をうけてコレクションを構想し、なんと140点の原寸大レプリカがつくったという。

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 そのなかでサン=ジル修道院は大規模でもあり、目玉の一つであったと思われる。ここではアーチもほぼ復元されており、より実物にちかい。
 推測するに、19世紀このかたフランス人はこの中世建築に注目していたということのみならず、19世紀末に建築ミュジアムにレプリカ展示されたということが、アメリカ人の関心を呼んだのではないか。つまりミュージアム政策そのものの参照である。さらにヨーロッパの文化をまるごと新大陸に輸入しようという壮大なアメリパラダイムの始まりであった。
 とにかくシャイオ宮のレプリカ作成からカーネギーの構想まで10年のタイムラグしかない。つまりフランスにおける古建築保存、ミュージアム化(啓蒙主義の展開)があった。アメリカはそれに機敏に反応し、建築模型を展示するという方式ならアメリカでもパリとほぼ同様かそれ以上のものができるではないか、とでも考えたのでしょう。
 そこでサン=ジルが選ばれたのはカーネギーの美術顧問のアドバイスであったのでしょう。ともかくもカーネギーさんはサン=ジルの彫刻を気に入ったものと思われます。

(5)ペヴスナー『ヨーロッパ建築序説』にもどって
 さらにこの建築がなぜ『ヨーロッパ建築序説』で大きな扱いをうけているか、です。ぼくの邪推です。パリにもピッツバーグでもレプリカ復元されているサン=ジルはよく知られた重要物件であった。だから外せなかった。多様なヨーロッパ建築について、英語圏、とりわけ世界の建築産業を支配するアメリカにおいて、文化発信する。そのときすでにサン=ジルははずせない物件となっていた、のではないか。つまりアメリカの読者にとり既知なものははずせなかった?
 それは西洋建築史の正史ともいえるものが、どういう状況で、いかなる力学で書かれたかを断片的にでも推察できるけっこう重要なエピソードだと思います。
 もうひとつ感じるのは同時代の日本。1900年代(ゼロ年代)といえば伊東忠太の世界旅行と建築進化論展開の時期でした。西洋建築から東洋建築へ、世界の建築をこの目で見んとする気概、それは立派です。でも決定的なものを見なかった。それは世界における建築の知の、根本的な構造転換(ミュジアム指向)と中心の移動(ヨーロッパ→アメリカ)です。日本が西洋に追いついたと思ったとき、西洋ははるかさきに移動していた。近代の超克において繰り返されるであろう構図です。
 明治大正における日本の様式史的な建築観が、すでに西洋では過去のものであり、同時代の西洋からいかに後れていたかの話はまたそのうち。そもそも建築をどうとらえるかの重要な話ですので。