アデル・ラインハルツ『ハリウッド映画と聖書』

訳者の栗原詩子さんから賜りました。ありがとうございます。原著は『聖書と映画』、2013年刊であり、表題どおりの内容である。訳文は平明で達者である。

 

世代的には『十戒』『ベン・ハー』『エデンの東』などが懐かしい(映画ではないが、ピーター・ポール・アンド・マリーというユニットはペテロ、パウロ、マリアのことである)。とくに前者の背景としてシオニズム運動などが示唆されている。わかりやすい。ただし政治的、社会的、そしてまさに宗教的な背景は簡単に示唆されるほどであり、かならずしも批判的宗教史というものでもない。『アルマゲドン』『アバター』など地球滅亡の背景には黙示録があることはわかりやすいが、宗教哲学全般に遡及するというよりも、映画の具体的なシーンの聖書的意味をたんねんに解説している。本書の魅力は、そのひとつひとつの細部であろう。

 

アメリカらしく素朴な信心と商業主義がクロスしているわけだが、やはり全体として、宗教コンテンツをストレートに映画に表現できるのはやはりアメリカというべきか。映画産業もしかり、そして本書がそんざいしうるという点もそうであろう。

 

つまり政教分離、宗教の自由とは、アメリカにおいては信仰が政治から自由であり、ヨーロッパにおいては政治が宗教から自由である。だからヨーロッパ、とくにフランスにような世俗社会と宗教のあいだの厳しい葛藤をへているところでは、ハリウッド映画のような率直さはとても想像できない。

なにしろ洪水をテーマとする映画は、ほとんど不可避的にノアの洪水をなぞるのだから、アメリカ人は信心深いというより、聖書はある意味でメタストーリーのアーカイブなのであろう。人間がおこしそうな物語は、ほとんどすべて聖書のなかにその原型がある、とまでいえそうである。そうすると逆に、現世はかの古いテキストの無限のバリエーションである、あるいは人間はいわば預言の自己実現をなしているのか、そのような構図まで感じてしまう。

いっぽうで、ヨーロッパでは教会建築が建築的沈思の対象になりうるのだが、アメリカでは教会建築が、建築論を刺激するほどの題材にはならないか、あるいはごく一般的な聖性の根源として考えられる程度であることと、聖書と映画のすりよりとは、なんらかの関連があるのだろうか。