『明治の建築家 伊東忠太 オスマン帝国をゆく』

8月2日、ジラルデッリ青木美由紀さんのご講演である。同名の文献にもとづき、学生にも理解できるように解説していただいたものである。

例の世界図式、すなわち古代系、西洋系、東洋系という3文明圏は世界旅行を契機として構想されたものだが、ラテンアメリカ、アフリカははいっていないではないかという指摘があったそうである。とはいえ樹形図的な建築様式発展図のなかに日本の立場が低いことへの批判をこめつつ、地球を文明圏に分節化するこころみ、すなわち時間軸から空間軸への変換をもって西洋的思考から日本的思考へのそれとする点は、和辻哲郎の『風土』などの先駆ではあろう。

日本における忠太論考もいろいろあるが、やはりトルコではなく1923年まであったオスマン帝国にいったのだというシンプルな事実の意義にあらためて気がつく。

帝国、なのである。ちなみにぼくにとって帝国、そして帝国の建築とは、きわめて具体的なものであり、ムガール帝国サファヴィー朝ローマ帝国ビザンチン帝国・・・・である。そしてオスマン=トルコは20世紀になってもともかくも存続していたように、帝国とその建築は、けっこう身近なものであった。

日本的文脈でいえば、20世紀にはまず東洋指向があり、つぎに日本的なものの探究があったのだが、これは端的にいえば、前者は帝国的なもの、後者はネーション=ステーツ的なものの探究なのである。

ところが忠太は、その点でナイーヴであった。20世紀初頭の世界において、国民国家が帝国を制覇しつつあるというのに、その制覇がむしろ帝国主義的であるかのようにうけとってしまい、そもそも自身のイデオロギー的一貫性もあったかどうか、疑わしい状況であった。

忠太が東洋的なものを目指すのはきわめて重大なことであるはずであったが、彼はその重大さにみあうだけの強度のあるイデオロギーを確立できなかったのであろう。