伊藤公文『百書百冊』

伊藤公文さんから賜りました。ありがとうございます。

 鹿島出版からの出版物における、書評集、エッセイ集である。高階秀爾(フォシオン『形の生命』)、伊藤ていじ(山本学治『素材と造型の歴史』)、桐敷真次郎(ギーディオン『機械化の文化史』)などの書評はお宝であろう。批評されている文献、批評する学者がそれぞれ時代性とレイヤーをなしており、数十年経過したいま、それらは多層の読解を求めてくるのだが、その時差のおりなす空間のなかに、書物の時代性とともに永遠性もみえてくるのである。

 ぼくの書評としてはフォーティ『言葉と建築』と、リクワート『アダムの家』が再録されており、ありがたい。

 フォーティについては、ロンドンの宿でページをぱらぱらめくって拾い読みしたときのテーマの切実感と、日本で翻訳を読んだときの、切実感が遠のくような、その差が印象的であった。つまり伊東忠太が「建築」という訳語を考えたときの切実感を、後世の日本人はみんな忘れてしまったが、おなじような感覚で、多くの建築用語の成り立ちの安定/不安定を考えはじめたら、不安な気持ちになるというものであろうのに。

 リクワート本の書評については、だいぶ時間もたっているので、客観的に自分をみれるというか、ああしっかり書いているじゃないか!と思った。アダムの家、なのだから聖書起源論の発想なのだが、その点もしっかり指摘していた。ただもういちど考えてみると、さらに奥がある。すなわちそれは、アメリカにはよくある、いわゆるキリスト教原理主義の発想とほぼ同じなのだが、リクワートとのつながりはどうなのか。また近代的な進歩主義思想により、キリスト教歴史観が覆されたのは19世紀である。19世紀においてもなお、神が世界を創造してからまだ数千年しかたっていないと信じられていた。そして物理学、天文学文化人類学が、数十万年、数十億年を発見したことが一般的な常識になるのは近代もずいぶんたっててからである。

 つまりリクワートが、建築の起源は、アダムの小屋である、あるいは出エジプト記に描かれた砂漠の幕屋であるなどということを書くのは、科学ではなくあくまで信仰として割り切って、聖書から象徴的説話を抽出したのであろうと、一般的な読者はおもっている。しかしリクワートその人の個人的信仰のなかからでてきた否定しがたい聖書ヴィジョンであり、それは近代初頭の西洋人のそれとほとんど地続きであるとしたら、どうなのであろうか。そして「モダニズム」もこうした思想の連続性を、じつは、否定したのでもないのだ(無関係になにかを創造したことはあった)。

 などと発想することが、自分自身の書評を再読することの面白みなのであろう。

 ともあれ優れた断片がたくさんつまったこの書物を座右において、ときどき眺めよう。ブランデーを味わうように。速読、通読にはもったいない。