『建築におけるオリジナルの価値』(2020)の読書感想

ハードコアな論考集である。なおこれは日本建築学会[若手奨励]特別研究委員会の報告書であるが、学会員のよしみで送っていただきました。ありがとうございます。
 ぼくが学部3年生であったとき、故稲垣栄三が担当する授業「日本建築史」のテーマは、法隆寺研究史であった。藤井恵介『法隆寺』のはるか以前であったが、ざっくりえいばそれを講義したと思っていただければいい(細部の重大な相違などは、ぼくごときにはわからない)。稲垣が解説する、文献主義と遺構主義の争い、尺度論、若草伽藍・・・の話はたいへん高度なものであった。本来なら大学院講義で話すべき内容であった。それを学部3年で聴講できたのは僥倖であった。しかし猫に小判でもあった。受講しているうちに、ああこれは結論のない講義だろうと思いはじめた。その悪い予想は10回目あたりから的中しそうに思われた。最後は気持ちが萎えてしまって、欠席してしまった。
 ところが、こともあろうに、そのぼくは建築史研究を志すことになってしまった。修論プランをゼミで説明せよといわれたので、研究対象は「建築アカデミー」、方法論は「学としての建築」だと宣言した。稲垣はなぜこの方法論かと質問した。ぼくは、専門として勉強しはじめた建築学は、ばらばらな諸分野の並置にすぎないから、それを批判的かつ歴史的に相対化したいからだ、などと生意気な返答をした。指導教員はにやりと笑うだけであった。学問のありかたがさまざまに批判・再検討されたのが1960年代であり、おそらくその時代に批判される立場でもあったであろう稲垣は、ああまたその批判かとでも思ったのだろう。
 あらかじめ無垢な対象があって、それを学が研究するのではない。学こそが対象を発生させる。社会学者は、社会学こそが社会を創造したという。社会学が社会という概念を提供するからこそ、社会としての人間集団が認識されうるのである。宗教学者は、学の発生以前はばらばらの宗派の併存にすぎなかったものに、それらを総括して宗教であるとしたのが宗教学であるという。建築(学)においてもまた同じ事情であろう。
 だから学はそもそも自己言及なのである。すると学問の主軸であるのは学術史・学説史なのであり、その周囲に膨大な数の各論的研究があると思ったほうがいいだろう。・・・報告書をよみながら、連想はどんどん脇にずれていってしまった。   
 元同僚をひいきするのではないが、全体が加藤悠希さんの論考だと思ってよむと、わかりやすい。ただ「オリジナル」概念はもともと曖昧である。報告書全体においてもそうとどまっている。もともと美術産業において贋作問題からオリジナル/コピーがいわれた。もちろん加藤さんが指摘する19世紀ロマン主義における独創性神話、それから話題になっていないがベンヤミンの複製技術時代の諸課題なども関連してこようし、デジタル化に及んではそもそもそういう二元論に意味があるのかどうかわからない。文芸においては作品をものした作家の唯一無二性が不可欠の根拠なのだし(ちなみにフランスの哲学者が『もし著者を交換したら』という趣旨の、ひねくれた論考を提供している)。さらには知財時代における著作権は建築には該当しない。建築設計は基本的に共同作業である以上、「建築家」は設計組織の長というたんにお飾りの場合も多い。そうしたことから、そもそも理論的仮設としての「建築のオリジナル性」がどう設定されているか、読めない。そのかわりに各論、カテゴリー区分、具体的問題の提示、その錯綜性(にかんする専門家の困惑)の示唆、などが示される。「オリジナル」は最後に再論するとして、それぞれの論考を味わっていきたい。
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 赤澤真理さん「はじめに」では、1994年奈良会議で整理されたオーセンティシティ概念から「オリジナル」という下位審級が問いなおされていることが紹介される。思い出の奈良会議である。ぼくは「発表しなくていいからロビイストとして自由に観察してくれ」という素晴らしいオファーをいただいて、出ることになっていた。しかし本務を代行してくれる人がみつからず、泣く泣く断念した。地方大学ってだめだなと思いつつ、これで出世コースから脱落したなあ、と思ったものであったし、そのとおりとなった。ひどく後悔したが、もう歴史であり思い出である。
 海野聡さん『中世興福寺の伽藍復興に見る建築の〈復古〉思想』では、ぼくなどは和様の復古はたんに歴史的現象としてのみ教えられていた(正確には、だれも教えてくれないので太田博太郎を読んで満足していた低レベル)が、〈復古〉はまさに思想・意図・意識であったことを指摘している。すなわちオリジナル/コピーという意識がそこにあったという重要な指摘である。連想にすぎないが、「復元学」とは愚論「学/自己言及」からみれば、復元の自己点検・自己批判に相当するのではないかと愚考する。
 赤澤真理さん「王朝物語絵を通してみた舗設の継承・変容・復古」。赤澤さんの『源氏物語絵・・・』(2010)はいわゆる絵画資料を建築の傍証とする構図を転回して、むしろ絵画イメージを主役にすえる、イメージと意識の系譜を指摘した。門外漢ながら個人的は注目しており、公式の場でプッシュしたこともあった(時効)。
 今回はメトロポリタン美術館での源氏物語展(2019)の紹介など、日本文化の国際性の現状紹介はありがたい。論考からの連想だが、たとえば西洋絵画史とはひとつのモチーフについてつぎつぎと変奏・バリエーションが描かれるその歴史であったこと、それは美術がある意味で「学として」自律し、自己言及と自己参照をしている構図がずっとあったこと、を連想させる。そこでスクール(school)は、流派であり学校であったが、その教育研究機能を自立させればアカデミーになる。なるほど「各時代の源氏物語に対する理解の変容過程を明らかにする」という目的が達成されているのだが、しかし、「継承・変容・復古」を可能にしたメカニズム、すなわち自己参照・自己言及のシステムとして、その意識を描くと普遍的にすっきりすると思われる。すると各時代の絵画作品のおりなす相関図の上位に、俯瞰的な観念が想定できるのである。
 米澤貴紀さん「習合神儀礼の場の構造」は、ぼくは論じられる立場ではないが、オリジナル/コピーの関係が宗派の関係から投影されるという重要な指摘である。当事者の意識としてどれほどであったかは、ぼくではよく理解できない。そもそも宗教儀礼にオリジナル/コピーという二元論はなじむのだろうか。
 ただ西洋建築との比較ということでは、すばらしく示唆に富む。すなわち西洋の宗教建築は、コピーすることでオリジナルに接近するという二元論の克服であるようにも思える。古代神殿は建築史学的には、物的特徴で分類されるが、しかしおなじユピテル神殿が各地に建設されるとき、それはなんらかの移動、分有、模倣という意識があったかどうか(あったのであるが)。クリュニー派修道院は、修道院建築のプロトタイプが各地で模倣されたとするが、異説もあり、さらに守護聖人との関連で各遺構を論じたものは少ない。建築プラン、様式が普及しつつ(模倣されつつ)、聖人の聖遺物が分有される(ことで各教会堂のオリジナルティが保証される)システムは、コピーのオリジナル化でもあろう。さらには近代になって、もと教会堂であった遺構と、教会機能とが分離されたとき、オリジナルをどう考えていいかは、遡及的なトリックでもしないかぎりわからない(だからそもそもそういう設問はしないほうがいい、とさえ思える)。
 加藤悠希さん「神社本殿にかえる形式の選択と模倣」もおなじ関心で読み続けることができる。すなわち、神社の「○○造」を区別しようという意識はすくなくとも16世紀末からあったこと、「造」の模倣という行為が宗派宗門間の軋轢となった事例があったこと、近代建築学はそれを西洋的な様式分類に相当するものとして継承していたこと、伊東忠太も「唯一神明造」を伝聞的に伝えていること(太田博太郎『序説』は注なしでそれを継承しているが)、伊勢を模倣しようとする熱田事件がそうした近代様式(造り)観の背景にあったこと、ことが紹介されている。遺構の整理学とも素人目にはおもえた日本建築史をすぐれて意識の学として再読しようとする加藤さんらしい雄大な構想であり、特段の批判はなく、ぜひ続編を読ませていただきたいものである。
 ただおもしろいことに、いくつかの事例において、まさに「模倣の否定」から逆方向にオリジナリティが浮上する、「模倣の否定」がオリジナリティ意識を事後的に生むという構図が示されているように、ぼくは読んでしまうのである。この発想の射程はきわめて大きい。すると、そもそも「オリジナル」の事前の定義を探すのはかなりむなしいことで(そういう規程があってもいいのだが)、まさにぬきさしならぬ実践の場における「模倣の否定」(あるいは「モデルの不在」米澤論考)はなぜ、いかにして発生するかの意識の問題である。そしてここにも自己言及、自己参照の意識がはたらいていそうであり、近代におけるそういた自問自答はすでに「学」の基本構造を含んでいるのではないか。すると近代大学制度はたしかに学史の切断であったとしても、それを越える「意識」の連続性に注目するのは価値あることだといえる。
 稲垣智也さん「城郭建築のオリジナルと復元」は現場における専門家・担当者の苦悩が伝わっているきわめて啓蒙的な論考である。くわえて城下町を原風景とする日本人にはとてもアプローチしやすい題材である。
 そこで理論的読み解きというより、一市民としてのぼくの乏しい古建築体験を披露しよう。ぼくはいちおう西洋建築史研究者なので、フランスを中心としてヨーロッパの教会堂や城郭な町並みをそこそこ見てきた。若いときに見はじめてすぐ自分に課した軌道修正は「古建築なるものはすべて19世紀の創作である」と思うことであった。そうするとストレスなく楽しめる。有名なポール・アバディが修復したペリグーのサンフロン教会なんかがそうである。35年ほどまえに初見したとき「偽物」の大音響が脳内にこだました。たとえば交換した石材量を定量的に量れば、そういうことになるのではないだろうか。だからフランスに中世建築など求めないことである。はいいすぎにしても、そうしたゼロ地点から建設的に足し算して理解していけば、だまされたという意識も生まれない。
 話題のピエールフォン。19世紀を擁護するつもりはないが、21世紀初頭の意識で断罪してもしょうがない。そもそもフランスの文化財行政を規定するのは、19世紀末と20世紀初頭に制定された歴史的建造物法なのであって、それ以前のものを遡及的に責めてはいけない。さらに文化財に指定されたものをみれば、19世紀は教会建築がほとんどであり、城郭や宮殿が指定されはじめたのは20世紀にはいってからである。したがってナポレオン三世はほとんど個人別荘のような感覚(まあ公私混同もあったであろう)でヴィオレ=ル=デュクに修復を依頼したのであろう。
 ちなみに、そもそも、ピエールフォンが中世城郭だとおもって訪れるフランス人がどれほどいるのだろう。むしろ、ナポレオン三世のご所望だったものを見て(コケにしたり)楽しむためにゆくのである。そして皇帝の表象としてのハチや、連想されるフランソワ一世としてのサラマンドルを愛でたりするのである。
 あるいはピエールフォンは、その反省から20世紀的な保存理論が検討された契機となった歴史的なものということで、逆に、建設的な評価がされるべきであろう。さらにさらにいえば、ピエールフォン以前・以後では、文化財概念が及ぶ範囲は格段に拡張され、私有財産でも文化的な価値があればそれとして公有のものとされる法制度が、20世紀できる。
 日本の城下町についていえば、戦後復興期におけるSRC城もまた、官公庁建設、各種「祭り」の創設などとあいまって、戦後民主主義地方分権のあわい期待を、社会がさほど疑うこともなく信じていた、そういう理想のよりどころであろう。フランス人は「ファサード主義」などと揶揄するのだが、社会が「ファサード主義」を容認した背景もまた忘れがたい。
 それをふくめて、現在の法制度や理念がいかに正しくとも、過去に遡及して適応できないし、さらには現在最善であるものも、やがて古くなり誤りとされるであろう。するとなにが健全であろうか。理論的にはやはり「学」が自己言及や自己反省のよりどころとして有効であろう。ぼくはすでにお気楽な西洋建築研究者にすぎないのでいえるのだが、そもそもフランスの遺産制度もまた、カトリック/共和派のなかから生まれた、教会財産・貴族財産総国有化の永遠の後始末だとしか思えない。だからすべてはあくまで相対的である。文化財が絶対的に善だとも思えない。保存、文化財、遺産などはそれそのものが一種の大がかりな文化現象である。それは文化論として論じるべき対象である。建築を価値づける「主体」とおもわれていた文化財制度は、それ自体がひとつの文化対象という「客体」でもあるわけだ。文化財的転回といえる。するとこれも自己言及であり、「学」という健全な形態をとりうるのである。
 アレハンドロ・マルティネスさん「建築遺産におけるオリジナルの価値」は、有名なギリシアの故事「テセウスの船」によりアイデンティティ概念を検討している。意匠、材料、技能、環境の4観点からアイデンティティを論じている。感想としては、これはアリストテレスの四原因説(質料因、形相因、起動因、目的因)をもっての検討と説明と、構造的にはほぼ同じである。したがって設問も回答もすでに古代にでていたようにも思える。で、ご説明としては、オリジナルな材が失われても、オーセンティシティは守られる、アイデンティティ概念の適用によって、というように読める。
 そのほかの論考もすべて素晴らしいが、言及する余裕もなく、失礼します。鈴木智大さんの論考は、たとえばフランス19世紀になってビザンチン様式教会堂が建立されるようなものに相当する仏教の事例紹介だし、坂井禎介さんの材料保存と意匠保存の矛盾にかんする論考は、アリストテレスの質料因/形相因による「テセウスの船」解題なのだろうが、ここでは論じきれない。コラムも割愛、申し訳ありません。
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 加藤悠希さんは「まとめ」で、各論を適切に整理してカテゴリー化して論考している。まとめはまとめであり、報告書は報告書なのであるから、ここで批判や反論はない。ただよく書けていることもあって、そこから連想できることをぼくの感想として散漫に書いてみる。
(1)p.124にあるように、加藤さんは「オリジナル」という近代概念をどこまで遡及できるかと課題としている。そこから妄想するに、そもそも「オリジナル」概念は近代妄想であって、はいいすぎなら、あくまで「理念」であったのではないか。
(2)つまり「オリジナル」はけっして「実体」ではない。ただし誠実なる建築関係者である委員会メンバーは、遺構や現場から離れることはできないので、しかじかの建材、様式、プランはオリジナルといえるかどうかという実体的判断をしてしまう。しかし「オリジナル」とはむしろ関係概念ではないか。それをあくまで実体論でやっていくと、出口はないであろう。
(3)加藤さんの論考を読んでいきながら漠然とイメージされるのは、結局、「オリジナル=模倣されるもの」ではないか。すなわち模倣しようという試みがあり、それを禁止しようとする反作用があれば、そこに「オリジナル」概念が浮上する。それまでは「オリジナル」なものという意識はない。しかし模倣しようとしたとき、その意識がうまれる。すると模倣こそ、オリジナルを生産する、きわめて創造的な1ステップという論理の反転がありはしないか。
(4)オリジナル/コピーは反復される。すなわちコピーがコピーされる複製技術時代になると、模倣は重層的になるが、そのとき「オリジナル」概念はどうなるか?
(5)西洋19世紀の折衷主義はどうなるのであろう。そこが模倣パラダイムの1世紀であって、のちにオリジナリティ不在を批判される。19世紀は、たほうで古代や中世のオリジナル建築と格闘していており、そこで古建築保存の経験が蓄積された。すると(というかもともと)「オリジナル」問題をもっともよく検討できる場は19世紀ヨーロッパである。
(6)思考実験としてプラトンイデア論。オリジナルなものは「イデア」のみであり、現象として与えられるものはすべて模倣である。すると報告書の議論はすべて空しくなってしまいそうだが、そうではない。オリジナルは実体ではなく理念であるという趣旨と一致する。
(7)イデア論はいわば「絶対的オリジナル論」である。それをモデルとして「相対的オリジナル論」がありえる。よりイデアに近い作品は「みなしオリジナル」であり、それを模倣するのはコピーである。こうした意味でも「オリジナル」論はすべて相対的であり、各論的な対処がえんえんと続くのではないか。
(8)すべてはコピーであるという態度から出発して建築をみるのが健全ではないか。オリジナルとは、これはコピーとは考えにくいという意識で浮上するのではないか。すると必要なのは、市民が文化財に接するときの心構えについての啓蒙である。
(9)報告書のどこかでだれかが指摘しているように、建物の履歴として、創建、改築、(火災消失)、再建、用途変更、修復・・・・などと歴史的レイヤーの積層であるということを初期設定としておくのがいいのではないか。日本の文化財紹介では、おうおうにして意図的に全体像を隠しておいて、じつは再建でした、じつは・・・、じつは・・・と謎かけ演出、遡及的な説明、が多すぎるのである。西洋のようにクロノロジカルでニュートラルな履歴がまず明記され、それを念頭において見学させることがベーシックになされる。すると「ヴィオレ=ル=デュクによる修復」そのものが歴史的レイヤーにして、遺産となり、その是非を市民がその場で議論するなどということになる。そういう観点からすると「オリジナル」的思考は、歴史のなかに絶対的な固定的原点を設定することになり、それでいいのかという気がする。現在の修復もまた歴史の一プロセス、という指摘はごもっとも。歴史的建造物は多層の歴史的レイヤーの積層として現前にあるのである。
(10)理念、意識、イデア、関係などという概念をふたたび「意識」として総括したうえで再論すると、モノ(物的史料)の重要性をこれまでどおり認識しながらも、「意識」に軸足を移すのだとしたら、それは理論的にはカントのいうコペルニクス的転回に相当するパラダイム・チェンジであろう。美術は、対象そのものよりも、むしろ対象を知覚し判断する主観の内部にその根拠をもつのであるという、近代美術史学の立脚点である。
 加藤さんの意識を主軸とする着眼、赤澤さんのイメージをそうする着眼などは、そのはっきりした意図的な展開である。その効用はいろいろある。近代大学制度を絶対的な切断としないで、明治以前からあった「意識」が継続されているとしたら、そして「意識」とはそもそも自己言及・自己参照であるとしたら、「学」とはそういう自己言及の集団化だとしたら、日本建築の歴史的連続性をさらに強固に遡及できるであろう。さらにいえば私たち大学人が取り組んでいる「建築学」そのものを、たとえ前史としてであっても、遡及的であっても、明治以前にまで拡張できるであろう。そうすると建築にとりくむ私たちの「意識」が改革されるであろう。
(11)さらに考えられる効用としては、たとえば江本弘さんによる、近代ジャポニスム(これも建築関係者の「意識」の問題である)にかんする理論的な取り組みとの連動性・連続性も見えてくる。すると日本建築をひとつの「意識」あるいはいくつかの「意識」の束としてとらえられ、それで大多数の遺構を位置づけられるような包括的なものとすれば、そのとき、他文化圏(外国)がすんなりと理解でき、まさに意識において共有されうるものとなろう。
(12)さらいえば太田博太郎がその『序説』において、時代ごとの各論のまえに、とってつけたように置いていた日本建築の美学(典型的な20世紀的西洋美学を日本に移入したものであって、いまや20世紀的発想を知るためにきわめて歴史的価値の高いものとなった)を完全に代替するような、私たち自身から出発して大過去にも遡及できるような建築意識を描けるのかもしれない。近代化の過程で西洋的価値観が大胆に導入されたわけだが、先人たちはその受容のもとを、悪意からではないにしても、隠していたように思える。現代日本人研究者の意識をひとつの平面としてみて、そこに西洋的なアイディア、日本的なアイディアがどのような図柄を描きつつ組み合わさっているか、それを描けばいいだけの話であろう。ぼくというより次世代の仕事であろうが。