帝国の建築(中国ツアーの余談)

これまで中国には縁がなかったし、まさかこういうかたちで見学することは、しかし勉強になった。

中国側代表者たちとのディプロマティックな場での発言は、なかなか結論まで到達しないものではあるが、専門家たちのご意見も興味深かった。社会学の先生は、中国にはそもそも社会学者が対象化するような意味での「社会」はあるのか、というようなことを、オブラートに包んで質問していた。「単位」なるものは聞いてはいたし、日本的な意味でのコミュニティ運動、まちづくりも、北京あたりでようやくはじまった、などということは都市計画の専門家が指摘していたことは知っている。それにしても社会そのものは課題である。

政治学の先生は、歴史を認識しなければならないが、正しく認識しなければならないと指摘していたが、中国側もその点は合意であった。

磯崎さんは、中国とどう対峙してきたかが、すこし垣間見えたのも、ぼくにとっての今回の成果であろうか。彼の交流はそうとう早くからあった。彼は、それと並行して、新古典主義、革命建築、あるいはファシズム建築や、ロシアアバンギャルド建築などを論考してきた。しかし、接続しようとおもえば一緒にできたことをたくさんかかえながら、性急にはひとまとめにはしなかったようである。いま取り組んでいる祝祭都市論などともテーマは関連しているが、関連はありそうで、中国はまた別のようでもある。中国を念頭において新古典主義的なものをやるのでもなく、新古典主義的なものを念頭において中国をやるのでもない。そういうのも彼らしい距離のとり方というものであろうと推測するのである。

ぼくが中国側にいったのは、20世紀初頭、日本人と中国人が、特有のナショナルな建築ではなく、普遍的な建築を研究したということ、それから、そののちそれぞれの国のナショナルな建築を目指したことの歴史的経緯ということ、であった。ただ「中国的なものはなにか」を問いたかったのだが、それは壮大なストーリーとなってしまうので、結論まで到達できなかった。結論としては、中国は中国的なものを探求して、グローバル化などもっと反省すべきなのだ、ということにしようと思った。

ただそこで考えると、日本が「日本的なもの」をそこそこ構築し得たのにたいし、中国は民族問題などもあって「中国的なもの」の論考は途中で頓挫したという印象である。

伊東忠太の建築進化論は、世界建築の構図としてはとくに間違ったことは書いていない。しかし支配/非支配の構図は単純化しすぎている。支配/非支配はもっと逆説的なものだ。古代ローマ帝国ギリシア建築の関係を思い出せばよいであろう。あるいはキリスト教ローマ帝国サファヴィー朝オスマン・トルコ。ムガール朝。そして清朝・・・云々。清朝はそれまでのものをより合理化し、大量生産向けにしたものだ。すると中華民国中華人民共和国において中国的なものを確立する場合の、コアはじつはなかったのかもしれない。もちろん中国人研究者が指摘するように、多民族の民族性、社会主義スターリン主義などを考慮しなければならないなかで、イデオロギー的コアを設置するのは困難であった。すると内発的な「中国的なもの」を探求するよりも、むしろ、普遍的な、それこそ新自由主義的なシステムに身をゆだねることこそ、大陸にふさわしいというようなことになってしまわないか?

古代ローマは、ギリシアを支配しつつ、建築などにおいてはむしろギリシア的なものを応用したにすぎなかった。ギリシア=芸術を、実用的に普遍化し、方法論化したのである。建築においてはむしろギリシアがローマを支配した。それが帝国の帝国たるゆえんであろう。だから国民国家がそれ自身の建築性をもち、アイデンティティの一助とするようなことは、帝国では成り立ち得ないのであろう。日本的想像力では大陸はわからない。たんにディテールの類似性をたよりにひとつの系譜を島から大陸へとたどるようなアプローチでは、まったく不十分なのであろう。