「デザインが世界を変える、世界がデザインを変える」

同僚の先生からいただいた『地域開発』(vol.613, 2016-04)の特集である。いわゆるデザイン学(「デザイン村」といういいかたがあって、そうだそうだとおおいに納得した)分野ではすこしまえから広まっていた概念ではあるが、アメリカ発BOP的なパラダイムを、建築的視線から再編集したような内容である。

日本の建築界が発展させようとする国際化・グローバル化が、もはや単純な近代化路線ではないなかで、対象国や対象地域のなかのポテンシャルを活用する方向性が示されているようである。病気の喩えでいえば、外科手術や化学的合成による薬物の投与ではなく、その人の本来もっている自然治癒力を、発見し、自覚させ、強化していこうとする方向性である。

わが学科?が模範とすべき内容であり、おおいに参考とできそうである。

たほうで基礎概念に注目することでも、いろいろと再考可能なことがらもある。

ひとつは「社会」という概念である。つまり国でもない、個人でもない、その中間レベルのこの曖昧模糊とした領域は、すでに形ができあがっている場合もあるが、それでも操作可能でありいろいろな方向に変容することもできる。またあまり形をなしていないこともあるが、その場合は、社会構築ということが伸びしろにもなる。そしてそもそも「社会」概念そのものが近代の産物であるという点も重要である。つまりその意味で「社会」とは古典的にして未解決の課題である、ということである。20世紀からの根本課題といえる。

最後の論文は総論的な位置づけあり興味をもって読んだ。市場主義、グローバル、社会などといっても、根本的には「生きる」とはなにかを反省しないといけないではないか、という主張である。そのとおりである。しかしその点はおおいに保留もしなければならない。なぜならば「社会」と同様に、この「生きること」の再定義がなされたのがやはり近代の初頭なのであり、それは宙づりになった設問として、ときどき忘れ去られながらも、継続している。だからあらためて問うことには意義がある。しかし日本の生活改善運動などをひとつのあらわれとして、生活概念の誕生とひろがり、その背景としての生の哲学、生権力、生政治、生命思想などは、近代の建築や都市計画の思想のなかにも現れている。「生きる」概念の再検討は、すべてをひっくりかえして再考するくらいのスケールのものであろう。