山本理顕『権力の空間/空間の権力』

著者様よりいただきました。ありがとうございます。

雑誌に連載された論文をまとめたものであり、このブログでもなんども紹介したから、こまかい解説は不要であろう。

山本さんとはもともと接点はなかったが、石堂さんに彼の建築を案内していただいたことがご縁で、よく彼の建築を拝見させていただくことになった。建築観的にも共通点があった。ぼくは研究しかしないが、山本さんはそれにくわえて設計をされるので、永年尊敬しておりました。

本書はしたがって、彼の建築論的ライフワークというべきもので、重厚で、深い。

ただ率直に不満をいわせていただくと、古代ギリシア、19世紀労働者住宅、世界の集落調査、現代日本の公共住宅というワープのしかたが大胆すぎて、よく理解できない。とくに労働者住宅は、なるほど住宅をとおしての管理であり、政策によってまさに社会構成を操作するものであったが、ただ19世紀の文脈でないとその是非は判断できないのであり、山本さんの普遍的問題意識においてどうこういうのはフェアではない。たしかに中野隆生によるプラグ街研究はよくできたものだが、フランスの住宅史研究(とうぜんフランス語での研究書はうんざりするほどあるが、英語ではないので日本にはまったく伝えられていない)のなかでは結論においてとりたてて独特だというわけでもないし、19世紀から20世紀にかけて住宅政策がそれこそ5年ごとにおおきく変わっていったという歴史的経緯を考えるなら、国家による一方的で永続的な管理強化の歴史であったなどとはいえないと思う。基本的には、19世紀の住宅は、完全な民業なのであり、それこそ資本の論理による労働者搾取なのである。政府は、民業圧迫を非難されるのを怖れて勝手にやらせていたが、ある段階で、いわゆる公的介入をする。国家は重い腰をあげて救世主たらんとした。もちろん結果的に管理はあったとしても。これが20世紀初頭の「社会」概念の奔流となってゆく。

それから世界と社会の区別にもいちおうは同意する。これは素人発言なのだけれど、「社会」はおもには近代になって発明された造語である。近代は、人間の群を「社会として」把握しようとした時代であり、その意味で、知は権力である。フーコーの指摘するように。ただそうすると「世界」とはもとからあった世界ではなく、「社会」ではないなにか人間の群としての存在形態、というさらにつぎの段階の概念構築だと思うのが論理的である。それが古代や中世にはあったかもしれない世界観と意図的に混同されているかもしれない、というのが懸念である。それは人間には「本来性」があるはずだという揺るぎない信念である。「社会」を批判するには、その本来性を出発点とするしかない。しかし本来性もまた構築されたものだったとしたら?

さらに近代における国家と個人の両極化についても同意である。それは革命のときにそうなる。革命政権は、それいぜんの政権以上に、中央集権的になる。そこでは中間集団は徹底的に排除される。ロシア革命は悲惨であった。フランス革命も、中間集団を絶滅させた。しかしそれから100年後、20世紀はじめ、フランスはアソシエーション法を制定して、中間集団を発展させる枠組みをつくった。これは日本流にいうとNPOや、新しい公共といったものの先行例となった。

ぼく自身は、ひとりの生活者として、もう本来性の場所などないと思っているし、そのために努力しようとも思わない。ぼくにとって社会とは現実だが、世界とは妄想にすぎない。ただ、ぼくは世界を妄想しつづける、ともいっておこう。そして社会が管理的で抑圧的であっても、すこしよくすることはできるのではないかとは思う。研究者的目線では、19世紀の前期近代は、ユートピア思想をはじめほとんどの試みは挫折したのであるし、しかも理論的にはマルクス主義によって否定され尽くしたのだが、じつは国家管理一元化にむかってばく進していた状況のなかで、自律的な集団を構築しようとしていたのはむしろ19世紀ではないか、という観測をもっている。

そういうこともふくめ地域社会圏という方向にむけて、歴史は動いているのは、ご指摘のとおりである。横浜での具体的スタディにもとづいており、率直に拝読している。これを刺激にして、ぼくも10年後、住宅論を書いてみたい。