『建築の価値、建築と価値』

というエッセイを書いた。日本建築協会『建築と社会』2015年8月号である。

難問であったのでそもそも「価値」とはなんぞやからはじめたのだが、建築の歴史的価値、芸術的価値などはまずからくりとして理解しなければならないと指摘し、最終的には建築的価値というありそうでない概念を構築できるやいなや、と問いかけた。

総論を書かせていただいたが、基本的には、各論を書かれた先生方ともおおよそ同意見であるか、すくなくとも方向性は同じであった。

文化遺産の世界では歴史的価値によって建築が評価される。それはそれでよいと思う。しかし本質的には、それはまやかしでなければ一時しのぎであろうと思う。なぜなら建築の歴史的価値という場合、その「歴史」はどのように解釈されるか、定義されるか、じつはあいまいである。さらにいえば、歴史と現代をそのように分断することが、これまた本質的に、建築にとっていいとは思われない。つまり歴史と現代をきびしく区別するのは、典型的な近代的思考であり、その近代的思考がなされるのは、近代が歴史を淘汰したという負い目であるという、トートロジカルな構図があるからである。

純化するとこうである。近代は、みずからを近代以前とは切断して考えた。分離、である。過去と歴史の制作である。そうであれば歴史によって近代という切断はあがなえるか。原理的に、それは不可能である。なぜなら近代という切断により、近代的な歴史観は成立しているからである。近代がみずからの誤りを修正しようとするとき、まさにその誤りそのものを根拠にするからである。

そういう意味で、芸術は芸術的価値によって判定される。シンプルに。そのように建築が建築的価値によって判定される、そのようなことがどうしたら可能になるかを、想像しなければならない。