「生活」思想

某学会では「生活」概念が、政策や文化運動のコアとなって、戦前戦後を一貫していたということが論じられていた。

建築にとっては生活改善同盟によりイス式生活や家族生活中心主義がもたらされ、近代住宅が形成される一助となったことが、教科書的知識として知られている。しかし建築が知っているのは近代におけるその「生活」パラダイムの一部であって、もっと広がりがあったようである。

まずアジア各国との比較がなされた。中国では蒋介石が、日本留学時代に近代的に規律正しい軍隊生活の体験から、日本に対抗する意味でも、国策としての新生活運動を展開したが、ほとんど成果はなかったこと、が紹介された。朝鮮半島あるいは韓国では、日本の政策をある面では継承した生活運動がなされたが、上からの改革ではあったが、貢献した点がなかったわけではないことが、報告された。

日本的文脈で興味深いのは、建築系が重要視する生活改善運動は文部省系の運動であったが、それとは別に、内務省系の地方改善運動、民力滋養運動、国民更生運動などがあったこと、などが重要ポイントである。政府系の運動は、やはり総力戦体制論に近くて、国力の根源を国民の生活にもとめるという発想であるようだ。しかし民間の生活運動では、さらに先が読まれていて、敗戦であろうと生活を軸にして国民の人間力を向上させるという発想が、「貫戦史的に」あったようで、戦前戦後の連続という発想をさらに乗り越えようとしている。

建築学においては「生活と空間の一致」などということがパラダイムになるし、重要な概念なのではあるが、しかし「生活」概念の考古学、その批判的な歴史的解釈はなされなかったという点で、建築系も自問自答してもいいかもしれない。たとえば;

西洋史でならたとえば「文明史」的な観点であろう。たとえば住宅をとおして、近代的生活と価値観を教えるというようなことが住宅史ではあったが、それは生活=生活様式=文明、という発想があるからである。

・日本の生活改善運動は、西洋化と同義であると考えられがちだが、そうではなく、むしろ日本の固有性を確立しようという方向性であった。ただ、民族運動というより、国民運動であったといえるであろう。たとえば日本が個人主義、個の確立という点でコンプレクスを表明したことがあるが、しかし、生活という点で、自律的な価値観を確立しようとしたと考えられる。

・「哲学」や「建築」が西洋概念を、日本人が、漢語に翻訳したものであった。しかし「生活」は、事情が違うのではないか。たとえば20世紀初頭に近代都市計画学が誕生したとき、たとえばドイツではLeben(生=生命=生活)という大きく多義的な概念がKWとなった。しかし日本語の「生活」は、もちろんLifeの訳語ではあるが、しかしそこまでの広さはない。だからなにか西洋概念の直訳ではなく、日本特有の文脈がありそうである。それがなにか、が重要であろう。

・生活運動は一種の社会運動でもあったので、政策ということで、国家や政府とも連動している。もちろん市民運動としても成り立っていた。そこで日本で生活運動が成立していたのは、国家と社会がほどよい距離にある、すなわち国家は政策として生活に介入しうる、また社会も自律的に生活様式を展開できるという、バランスのよい状況にあったからであろう。中国では、蒋介石の生活運動は、国民からまったく無視されたのは、結局、国家と社会がかなり乖離しているからである。

以上から、21世紀の「生活」とはなにか、資本主義社会のなかで「消費」概念が支配的になる時代に「生活」概念はまだ有効なのか、建築系としてそこをまだまだ重視するかどうか、するとしたらどういう生活像をもつべきか、などが問われてもよいであろう。