GAより送っていただきました。ありがとうございます。
これはGAJAPAN誌に連載されたものの単行本化のようであり、するとぼくがあれこれ説明するまでもないであろう。とりあえず2点ほど。
日本における建築家の「自我」を対象としているという点では、やはり稲垣榮三の問題提起のフレーム内である。稲垣は、分離派建築会の登場をもって近代的自我の対象とした。もちろん大正リベラリズムを背景とする説明は説得力があり、長谷川堯が『神殿か獄舎か』でのべた実存にもとづく建築というのもその展開であろうし、深読みすれば、近代における人間疎外論というのも、自我という前提でなりたっている。だからこの枠組みはあるていど普遍性がある。
ぼくは著者と同世代なのでよく理解できるつもりなのだが、彼は建築をはじめたとき、建築学生がいちはやく業界になじんだつもりになって建築を語るその語り口、つまり建築界が成立し、その業界特有の言語にいちはやくなじもうとする同世代人に、かなり違和感を感じていたようである。だから彼の場合は、そのようにいわば鏡像関係的に、自分の自我を構築したようなのであるが、その彼がまさに自我を論じるのは、それこそ歴史的必然といいうるであろう。
また本企画が二川プロデュースだというのも重要な点であろう。彼は20世紀の巨匠建築家たちと直接のコンタクトがあり、彼らの人柄、いや自我そのものに接していたから、彼の視点の高さはまさにそこに由来するのである。彼の視点の特権性はそこにある。だから巨匠芸術家たちが傑作をつぎつぎとものすように、巨匠建築家たちが傑作を建設してゆく、そのプロセスを体験したものにとって、強烈なコアを内部にいだく人間として、建築家は存在する。それを彼は自我とは呼ばないにしても、彼の建築写真は、たんなる事実の説明ではなく、偉大なる精神、偉大なる自我の痕跡なのである。
また、そうすると稲垣的な自我概念と、二川的な巨匠概念はすんなりと結びつく。そしてそれは20世紀のコアなのである。
すると本書はそうした20世紀的なものからごく自然に生まれ出た嫡子のようなものであろう。