ポール・アバディというとパリのサクレ=クール教会堂の建築家として有名である。ついでに修復建築家としても活躍しており、ペリグーのサン=フロン教会やアングレームのサン=ピエール・カテドラルといったドーム式教会をふくむ多くの中世教会を修復したことも知られている。
ところがウィキペディアではフランス語のサイトしかなく、国際的にはほとんど関心がよせられていないし、ボルドーやアングレームの現地を訪ねると、まだまだ知られていないいろいろな側面があることもわかった。
まあそんなことをいうぼくも現地にきてはじめて興味が再起動するというていたらくなのだが、ボルドーでもカテドラルやサン=ミシェルといったゴシックの主要な教会堂は彼により修復されているし、ペリゴールやシャラントといった県をふくめ、フランス南西部は彼のテリトリーであった。パリ生まれの彼がはじめからビザンチン様式を好んだのではなく、やはり当地で実例と格闘しているうちに自分のものとしたということである。
アングレームを通りすがりにのぞいたのだが、初期ゴシック様式で建設したサン=マルシアル教会や、中世の城郭の塔をインテグレートして建設したやはりゴシック様式の市庁舎など、大聖堂の修復もさることながら、新築物件の多さに驚かされる。
(サン=マルシアル教会)
(サン=ピエール・カテドラル)
そのなかでアバディが市庁舎や教会堂を建設しているということは、彼は社会と経済の上昇気流にのっていたということである。
だからアングレームのサン=ピエール大聖堂の修復をまだにこの時期に担当したということを、たんに保存史の文脈のみならず、都市経営の歴史のなかに位置づけるということもするべきであろう。都市大発展の時期に、大聖堂を修復するということの、文化的・シンボル的な意味合いというものもあったはずである。国家の歴史的建造物委員会が展開しようとした文化財行政の文脈のほかに、それとオーバーラップして、である。
とはいえ彼によるよくできた新築教会堂と前後してみると、彼は本質的には、修復家というより建築家であった。中世建築の史実よりも、自分の理想に忠実に、復元しようとしたが、それは新たな創造ともいえるようなものであった。同時代からすでにいろいろ批判があったらしい。