日本建築学会の授賞式にて建築界を思う

金曜日は日帰りで建築会館にいってきた。

もうお役ご免なので書いていいのだが、ぼくごときが偉そうに、某賞選定委員会の委員長であったので、ご指示により出席した。多くの優秀な研究者や建築家たちが受賞したが、やはりこういう場は、晴れやかさが違う。受賞者たちの高揚感が会場を満たし、ぼくまであやかって、ハッピーになってしまうという感じである。

昔からの知り合いとしては布野さん、松村さん、植田さん、地元勢のなかでは、末廣さん、徳田くん(わが学科のOBである!)らが受賞。おめでとうございます。そのほか多くの受賞者のみなさまに挨拶してまわり、いあわせた先輩とも歓談。悪の商談もほんの少し。帰りの飛行機があったので、残念ながら、懇親会に1時間は短すぎた。

ところでテーマをあわせたわけではないが、行きの飛行機のなかで『建築的価値』というアメリカ人研究者の本を読んでいた。ごくいちぶだけパラパラと目をとおしただけだが、MOMAのインターナショナル建築展から、アメリカ人たちがなんとかイズム、なんとか派などと、マニフェストしたり、レッテルを貼る行為そのものの意味について、ぼくたち日本人の感覚がちょっと違うことに気がつく。つまりぼくたちにとって、建築運動のマニフェストはそれはそれだが、それ以上ではない。しかし西洋では、それが価値判断の基準となりうる、というような感じである。だからインターナショナル建築展は、「国際様式」がこれから流行りますよという予測にとどまらず、いくつかの指標を出して、このスタイルが価値基準となるというご神託をしているようなところがある。だからその様式がほんとうに広まってしまうのは、予想が当たったというのではなく、ミュージアム=権力の指示に現象が従った、ということなのである。

だから自由の国アメリカがときに統制的に見えるのは、そのような事情なのであろう。

そうかんがえてみると、日本人にとって、なんとか主義などは、やはり外来の主義であり内発的なものではないので、価値判断の基準にしては相対的に弱いという印象である。これは国家統治のために仏教を移入したというイデオロギー構造のありかたと似ているのかもしれない。

学会賞は、学会内の相互評価がもともとなのだが、転じて、あるいは発展して、社会にたいする学会の自己評価、自己存在証明という側面もある。建築界が実体としてあり、発展するには、むしろ後者がもっと重要になる。それは学会というものの意義にとどまらず、建築を評価すること、建築の価値を示すこと、そのものに繋がるからである。

MOMAのことを批判的にかいたのだが、そこで注目しなければならないのは、博物館による文化コントロール(ちょうどモード界のように)や、職能運動、さらにはより全般的な建設業界の発展により、ひとつの「建築界」が構築されたということなのだ。イギリスやフランスなどを考える場合、RIBAだのボザールだのといったひとつの組織を考察するにとどまってはいけない。それぞれの「建築界」が、地理的そして歴史的な事実として形成された、そのプロセスが重要なのである。

これを今はやりの概念でいうと、資本、ネーション、ステーツの三位一体構造のなかで、「建築界」はネーションに相当する。いちどできれば、これは不可分なひとつの実体である。グローバル化のなかで、資本の一人勝ちに対抗するものとして、ますます重要になるかもしれない。

これから近代建築家研究、職能、組織論などに取り組まれる若い研究者がいるとすれば、この「建築界」の形成プロセスはいかに、が最終ターゲットであることをめざしてほしい。