プラトンの洞窟(東京カテドラル試論)

1月23日は出張にかこつけていろいろ観光した。

まず近現代建築資料館であるが、地下鉄からおりて湯島天満宮をながめながらアプローチするのが妙である。いわずもがな菊竹清訓展であるが、トレぺ図面、模型、スケッチ、動画など充実しており、これなら世界中どこに出しても恥ずかしくない。展示ホールそのものも広く立派である。それにしても菊竹の構想力の大きさである。福岡県久留米市の大地主の息子であった彼は、なんども洪水で住人宅が流されたつらい経験があって、それがピロティ形式へとつながっていったという。であれば海上都市もその延長であろう。そういえば大高正人も戦後農地改革で土地を接収された没落地主の子息であったということで、坂出人工土地はそのトラウマからきていることも、最近明らかになっている。すると日本の近代建築において、主役はやはり名士層なのであって、大衆やら庶民はやはりあくまで客体であって主体ではなかったという、あたりまえというか、当然予想されることが前提となる。ただそれにしてもほとんど妄想に近いような社会構築イメージの源泉は、もっと深そうである。

ぼくにとってはちょっとした建築センチメンタル・ジャーニーとなった。

それから東京カテドラルである。これも護国寺の近くにあり、お寺と教会、ちょうど聖橋の両端には仏教とロシア正教であるような、東京ならでは?の聖地のありようではある。この丹下健三の傑作のひとつは、学生時代いらいだから、なんと三〇数年ぶりということになる。しかし印象はいまでも鮮烈で、古さもまったく感じられないものである。日本近代における宗教建築という文脈にとうぜんのるのであるが、ケルン司教区の財政援助によるものであり、かつほぼ建設と同時代の、第二バチカン公会議におけるカトリックの新しい布教戦略を反映している。ステンドグラスはまったく抽象的であり、具象性はまったくない。十字架にはキリストの身体はあらわされていない。空間にヒエラルキーはなく全体は一体となっている。ゆいいつ、祭壇というか内陣?は、会衆席からはステップ数段ぶん、床が持ち上げられている。着座するとちょうど目線の高さが床レベルとなっている。そのくらいは意図して決めたのであろう。

結果的にそうなっただけなのだが、丹下健三は、ぼくにとっては建築をはじめる入口であった。最初に読んだ文献が彼のものであった。時代的にはコアシステムなどがまだ学生プロジェクトの模倣の対象でありえた最後の時期であった。やがて時代は、偉大なる丹下を仮想敵としてたてて、それを克服しようとする流れとなる。それはなかば明言されない、暗黙の構図であった。彼が亡くなり、そして一〇年がたつあいだに、多くの弟子たちが物語を再開してゆく。しかしそれでもなにか霞がかかったような光景に感じられるのは、彼があまりに偉大なので、評価軸とすべき近代なるもの、二〇世紀そのもの、も描けない。だから反映的に、丹下そのものも見えているのに、これだけデータがあるのに、描けないでいる。それはとてももどかしい。

予約した飛行機の時間がなければいつまでいたかわからない。それでも短い時間のなかで、ぼくは丹下と対話せしめられたようである。教会空間は、トップライトが十字型だというくらいで、とくに宗派の図像や形態には支配されていない、抽象的で普遍的なものである。構造専門家も考えた、力学的な合理性も支配的である。そういうなかではコンクリートの型枠の痕跡くらいが、建設のかけがいのない一回性を感じさせる。それは建築家の身体性のようなものまで妄想させる。ただここでは、そうではなく、丹下は、さまざまな課題を翻訳してゆくにとどまらず、いろいろなものを超越してゆく、その超越のありように本質があるとすれば、ぼくたちが見ることができる写真や、図面や、建築や、文章はすべて丹下の影なのだ。するとプラトンによる洞窟の比喩という構図のなかにぼくはいることになる。東京カテドラル、この天空からの光が降りてくるこの崇高な空間は、その光によって、むしろ丹下の影のなかにぼくを置いてしまうのであり、この教会の内部空間はイデアの影が投影される洞窟として作用しはじめる。あたかも罠にはまったことに気がついたように、洞窟に身をおいてしまった者に、次のミッションがかせられる。答えねばならない。丹下とはだれであったか?彼の建築はなんであったか?という問いに。