教皇フランシスコの新方針?

教皇イエズス会系の雑誌インタビューに答えたことが波紋を投げかけている。

同性婚、避妊、中絶などについてこれまでほど厳格でなくともいいのではないか、という趣旨である。一般メディアもこれをくわしく報じている。

一般紙の代表格であるフィガロなどによれば、教皇は右派ではなく、教皇権に否定的であり聖堂参事会や司教区はもっと自律的であるべきと考え(つまり教皇の中央集権ではなく)、かならずしも伝統にこだわらずに新しい社会状況をとりいれるべきで、つまりバチカン2により忠実であろうとしている、というような位置づけである。

とりわけヨハネパウロ2世とベネディクト16世の時代はあまりに集権的であったということを、現教皇は批判しているのだという。

日本メディアは、モラルにたいする態度に注目はしても、そもそもバチカンの体制はどうかというような視点からは見ない。しかしヨーロッパはもちろんそうではない。

2008年にフランス・カトリック・アカデミーという団体が設立され、定期的にシンポジウムが開催されている。その最新の論文集が今年発行されたが、カトリック当事者たちの今現在の意識ということで興味深かった。

それによると「ヨーロッパ」という、永遠の理想でもあり現在確立された枠組みのなかで、キリスト教をどう(再)位置づけるかということに議論が集中している。日本からみると、西洋は、古典古代とキリスト教と近代科学でできていることは自明のことであって、キリスト教がそのアイデンティティのコアであることは疑っていない。しかしヨーロッパ人にとっては、近代化がそもそも宗教を社会から遠ざけたこともあって、この宗教がやはりヨーロッパアイデンティティの核心のひとつであることは再強調しなければならない事態である。そこでかならずしも信者減少のカトリックが社会を支配しているという意味ではなく、この宗教がなしてきたことがヨーロッパの正統な「遺産」であって、それを墨守するのではなくそれを基盤にしていろいろなことを受け入れてゆく、それがカトリック=ヨーロッパの意味であるという再確認である。

宗教の観点からヨーロッパ/国民国家の関係も議論されている。ヨーロッパレベルでは宗教は規定されていない。国家レベルでそれは規定されてりうのであって、国家宗教、政教分離、ライシテ(フランス独特の宗教/社会関係の規定)、コンコルダ(ナポレオン体制の遺物)などさまざまである。宗教が諸国家を横断しているなどといういう楽観もない。

ところでカトリック当事者たちの意識として彼らの言葉を読むことは勉強になった。つまりヨーロッパ=カトリックは自明ではなかったのである。とくに20世紀後半からイタリア人ではない教皇が連続して選ばれたことは、彼らにとってのグローバル化である。その結果。カトリックは「南」(南北問題での南)に向かうのか、脱ヨーロッパ化するのか、という不安を自問したのちに、やはりカトリックの中心はヨーロッパなのだということが再確認されている。

そうしたことが、近代化を意識したバチカン公会議であったように、アングロサクソン的な新自由主義経済のグローバル化を批判しつつ、カトリックが別のかたちのグローバル化によって対抗しようとしていることがはっきり示されている。

おりしもある経済評論家は、これからは南米が世界の工場となるであろう、オリンピックはその布石である、と指摘した。そのようなことは、バチカンはとっくに意識しているかのように思える。

印象的であったのは「マイノリティ」という自己規定であった。「カトリックはヨーロッパ社会のマイノリティなのだ、しかしこの創造的なマイノリティがヨーロッパをリードしてゆくのだ」ということがくりかえし強調されていた。そしていまこそ「伝道」の時代なのだ、というようなことも。