栗原詩子『物語らないアニメーション』

栗原先生はかつて、同じ学部の違う学科の先生であったが、地元有名私大にご栄転されてしまった。数年後、こんどはぼくがその大学で非常勤をするようになり、廊下ですれ違うときに挨拶くらいはする。そのようなささやかな奇遇のおかげか、著書をおくっていただき、まことにありがとうございます。

まったくの専門外なので、とても論評できないが、テーマとされているノーマン・マクラレンの作品をYoutubeでのぞいてみる。《隣人》は、説教くさいが、柵を手品のように築くのが魔法の建築のようで楽しい。《ペン・ポイント・パーカッション》は、視覚と聴覚の往復運動なのであろう。図を音化し、音を図化する。《ひばり》や《黒つくみ》は、ヨーロッパの旅行先でときどきみるアニメは、これが源泉かあという感激。《リズメティク》は、ピタゴラス神秘学やカバラの系統なのであろう。《Spheres》(球の配列)は、球という実体ではなく、空間を変容させているところがミソ。平面になったり奥行きができたり。図をみつつ、地が変容していることにどっきりする。ただし宇宙が同一の法則に従うというニュートン的世界観を、バッハの音楽が反映し、それをマクラレンが球の運動の音楽とするのなら、そんなにモダンでもないのだが。・・・などということは専門家がすでに指摘しているようなことであろう。

個人的に連想したのは、《いたずら椅子》などのドゥープシートは、(とくに彼に固有なものでははないとしても)たとえば建築界で1960年代に流行った、家事労働のチャート化を彷彿させる。いわゆる家事労働を分類してY軸とし、時間をX軸としてマトリクスをつくり、そのなかで家事労働の展開を記述する。これは戦前のアレクサンダー・クラインが住宅平面に動線を書き込んでプランの合理性を点検するための図表化をしたのだが、それを時間軸にもとづく別の形式の記載法としたわけである。音楽の表記法そのものが演奏される音楽から自律して価値をもつようなことがあるらしいが、建築もまた、いわゆる生きられた建築から独立した表記法ができ、とはいえそれが生きられてもないということにもならない。そんなことを連想させる。

もっと卑近な連想は、今朝、大学の偉い先生をまえに、プレゼンテーションをしたが、アニメーションを多用したパワポは、ぼくの語りではなく音楽でもつけて、《リズメティク》もどきにでもしようか、などと妄想はふくらむ。

クラレン本という不意の訪問者に、とまどいながらもご挨拶する、これも生活のたのしみというもの?