LSDといっても・・・・

 最近アクセスが少ないなあ、ブログの時代も終わりか、とおもっていたらぼくがほとんど更新していないのであった。2年前とくらべると半分以下の投稿ペースになっている。メンバーシップが固定しているメディアとしてはfacebookがいちばん便利で、あれは研究室掲示板、としてつかってる。あと、研究室OB会としても使っていて、これは本来の使い方といえる。ブログの相対化ということか。あとクラウド。データ保存サービスも便利だという使用者談もあるが、心理的抵抗があって使えるないでいる。

 ところでLSDといっても60年代にはやったあれではない。ロング・スロー・ディスタンスというジョギングの一種で、健康情報後進者であるにしてもWEBで学習した。アマチャアの次元だと、ゆるゆると90分以上走るのだという。で、先日ジョギングのメッカO壕公園でためしてみたが、17キロを2時間で走れた。ぼくの年齢と身体能力からすると慶賀すべきことである。時速8.5キロ。1キロ7分。ペースは遅く走るべきLSDとして合格らしい。

 LSDの効用は血管が鍛えられるということらしい。学生のころ、脈拍数120回/分を越える運動によって心肺機能は向上するということを、教養の授業で教えられた。でもそれは競技のためであって、健康維持は別らしい。心臓は激しく鼓動して血液を全身に送るのだが、血液は主要な太い血管のなかを高速で駆け抜けるだけである。ところが脈拍110以下だと眠っていた多くの血管が目をさまし、身体のすみずみまで血流がよくなるのだという。なるほど。そういえば肌がつやつやしてきたような気がする。ビールもおいしいし。

 そんなことで17世紀フランスのデカルトの時代、「循環」というコンセプトがたいへん重要になったことを思い出した。生物学でも血液の循環をスタディすることがさかんになり、輸血もなんどかこころみられた。ただし血液型が既知であったということを説明する文献はないので、実験台になった動物たちは難儀なことであったのであろう。そういえば、循環するものといえば、血液だけではなく、空気(呼吸)、光(視覚、光学)もそうである。17世紀はいわゆる「光学」の発展期でもあったのだが、宇宙を満たしている光が、眼球を刺激し、それが脳につたわり、意識を構成する。そういった人間/環境を横断する、世界は循環でなりたっているというヴィジョンが示されたのであった。そして循環するものの結節点として人間があるわけで、そもそも人間は孤立できないし、コギトといってもその観点から考えねばならないのであろう。

 さらにブログなどfacebookなどもマクルーハン「メディアがメッセージ」にあるように、循環することに意義があるようなものである。ただこれも、われわれの21世紀よりも、17世紀的ヴィジョンと重ね合わせたほうがしっくりくる。

 というわけでスロージョギングもLSDもほとんど脳内麻薬をもとめての快楽主義なのであるし、走る最初の5分で最初に頭に浮かぶのはかならず今夜のビールのことなのであるが、ジョガーは都市のなかを循環し、空気を環境とやりとりし、血液を媒介として酸素を吸収し、二酸化炭素を排出する。そういう古き良き古典主義時代の発想をこの身体で試してみるのであった。