Global Ends/漂流する建築?

グローバル・エンズ。世界の果て。ギャラ間の展覧会の図録である。初版第一刷が今日2012年2月24日なのである。ご縁のおかげでその日に目をとおせたので、すこし書いてみる。

最初に脱線。昨日、学科会議というものにでていたら、隣にいた同僚(建築家である)が「アーキデイリー」を見ていた。ぼくもfacebookつながりで彼がときどき「いいね!」と共感していることは知っていた。あのサイトをみると情報満載で、全部見きれないほどあって、情報飽食の天井を破っている感がある。だから逆に、情報の海を、うまくカテゴリー化、構造化、階層化して整理することが、21世紀の哲学のようなものになるかもしれない。哲学が大げさなら理論でもいいのだけれど。

「世界の果て」はそういう切り口のひとつなのであろう。グローバル化はそもそもフロンティアの喪失であることはずっと意識されていた。だからこの惑星の表面がネットワーク化し、一体化し、均質化に向かうなかで、もはやここが辺境であるなどというかたちでは指示できないものとなっている。「果て」とは。だからセレクションにのこった建築家7名を選んだ、内藤廣岸和郎といった建築家たちが、ある状況に身を置き、そこが「果て」と感じてしまう、その状況感がリトマス試験紙になっているのであろう。だからこの図録から読み取るべきは、作品そのものというよりも、この「世界に身を置くことの感覚」なのであろう。

その意味では安藤忠雄が「孤立」することの意義を説いていたのを引用しているのは、そういう意味であろう。人間は孤立できるのである。

話はふたたび脱線するが、先日研究室説明会をしたとき、3年生が環境とSNSの関係について研究したいということをいっていた。たいへん結構なのである。ただこの文脈では、つまりSNSが絆の再確認にはよいけれど、出会いは貧弱だという批判もきくと、どうなのであろうか。最良の「果て」とは個々人の「孤独」「孤立」なのであろうか。

座談会では、原研哉が、ポスト工業製品時代のデザインとはなにかという問いを(気をつかって)投げかけていたが、建築家たちはあまり答えていなかったように感じられる。100年前、建築家たちは建築を(とくに住宅やオフィスを)工業製品のようにしてつくろうと考えていた。その立場が逆転しているようでもある。日本国内での製造業は淘汰が進んでいる。そういうものはもう建築のモデルにはならないかもしれない。あるいは建築のモデルになる「デザイン」はきわめて限定されるのであろう。ぎゃくに「デザイン」が「建築」モデルを求めているというのが大勢であるとしても、それほどうれしいことではないのだが。

みたび脱線すると、先日やはり同僚(哲学者)とランチしたとき、ロビンソン・クルーソーなどの「漂流」概念の拡張版について語っていて、面白かった。海流にながされるなど事件としての漂流はかわらないが、どこに漂着する、だれに救助されるかは世界状況によって異なってくる。だから世界からの逸脱は個別的だが、世界への再回収はその世界の状況に支配される。

・・・などということである。果て/孤立/(人の・産業の)漂流などといった昨今の状況を考える手がかりとなるであろう。

建築は漂流する。なにかから離れ、どこかに漂着する。そういうメタストーリーでいろんな作品やプロジェクトを見てゆくと面白いかもしれない。