大澤真幸『夢よりも深い覚醒へ』など/アトリエ・ワンの42住宅

大澤真幸『夢よりも深い覚醒へ』

早く帰宅できたので、ターミナルで書店によってみた。3月6日発行という標記文献を買った。

311以降の哲学を論じた本書は、まず前半は理不尽な絶滅、アイロニカルな没入、偽ソフィーの選択などのこれまでの緒論を編集したような内容である。後半は、(原発事故=)すでに訪れた神の国、普遍化されたプロレタリアートの概念、そして「未来の他者」について論じているが、ぼくのような読者にとってはあまり読みやすくない。結論が特異な社会契約というもので、これはいわゆる「第三者の審級」をいちど未決定の状態にもどす、すなわち「原子力の平和利用」という超越的記号を決定以前の状態に戻すこと、なのだという。そういう結論は、疑わないで、そうなのだと受け止めるべきであろう。

メタフォリカルな話と、理論的な話を交互にくりかえすのは、たとえ話のテクニックなのであろう。ただ今回はそれが黙示録的な語りにような雰囲気を生じさせる。たとえば超越論的記号をいちどもとに戻すという発想も、現実にはそれがいかに困難であるかという認識を地にして語られているのであろう。

中野剛志・柴山桂太『グローバル恐慌の真相』

こちらはEU危機に応えて書かれている。グローバル経済、アメリカ金融経済、ギリシア危機、中国経済の困難といった状況のなかで、デフレ傾向、格差社会、製造業の没落、新しい南北問題、内需の重要性、が論じられる。よくまとまっているが、新しさはどこかは、専門家でないのでよくわからない。共感がわくのは、19世紀もグローバル経済の時代であったという認識、重商主義の意味内容、といった大きな枠組みはそのとおりであろう。ただそれが建築史とリンクするとどうなるか。ベネボロなどの歴史観によれば、自由放任主義の19世紀において都市は無秩序に成長したが、20世紀はむしろコントロールの時期であった。21世紀はどちらかというと19世紀的である。しかし国家や社会的繋がりの役割が再認識されたりするのは、たんに19世紀的なのか、しかしヴァージョンアップしているのか、ということである。

JA no.85(住宅の系譜 アトリエ・ワンの全42住宅)

たんなる住宅の特集としてみていると、自宅で読書したりSOHOで知的作業をする、そういう施主が多いのだろうか。ほとんどの人間がケータイやPCを使う現代は、庶民だの、労働者だのといった人間類型が通用しない。それでは21世紀はどのような類型概念が可能であろうか。

大澤/中野/アトリエワンと横断的斜め読みをすると、21世紀的なプロレタリアートはこんなところに住むのか(戸建てだからそうではないがずだが)、商品としての土地がある意味でとてもクレバーに活用されるのはこういうことなのかな、と妄想が走り出す。ほとんど間違った妄想なのだろうが、具体的に立ちあげられた空間はそれなりに世界の構造を反映しているはずである。

アトリエ・ワンの住宅は、それまでのタイポロジー的アプローチをまったく払拭した、境界条件とその場における重要なパラメーターの抽出という方法論において、新しいのだと理解している。もちろんタイポロジーや歴史上の典型が意識のなかで参照されないわけではないだろうし、政策論・産業論にリンクしそうにない(といっても、べつにリンクしてもいいのだけれど)。

ただかつて「住宅=小さな神殿」というような神話化があった。それはここにはない。だから強引にいうと「第三者の審級」をうまくはぐらかしていて、とてもフレキシブルに感じられる。それが普遍化したプロレタリアートなのかどうかはしらないが、重要な内需の拡大ということにはおおいに貢献していそうである。