5年ぶりの丹下健三論など

先日、横山俊祐がぼくの大学に教えにきてくれたので、数十年ぶりに一緒にお酒を飲んだ。

呼び捨てにするのは同級生だからである。

大学の同級生というのは不思議な存在で、学生のころはライバル意識などなかったのにやけにおたがいに厳しかったり喧嘩したりするが、社会を経験しているうちに、ああ彼ほど立派な人間はいなかったと、レトロスペクティブに気がつくのである。

そこではじめて彼のHPを見たりすると、ぼくの3倍ほどのスタッフ+学生数の大研究室の先生になっていたので、すごいなあと思ったりしている。大阪はやはり建築学科も多く、交流も盛んなようで、すごい活発である。

ワインをのみながら、4人で3本あけて、そのうちのひとりはとんど飲んでいないから、ひとり一本、でもつぶれることもなく、昔から今の話までひととおり済ませた。ぼくが過呼吸症候群になったときも彼が救急車を呼んでくれたのだ。命の恩人である。あのときはどうもありがとうございました。あのとき、お礼をいったのかどうか記憶にはございませんことを深くお詫びもうしあげます。

それでも昔話がはずむのは、未熟だったにせよ、それが自分の原点であり、原点なしには今の自分は計れないのである。

翌日は1年生210人を相手にして「丹下健三論」を5年ぶりに話す。5年ぶりというのはたんにローテーションだからにすぎない。それに導入科目だからそんなに深くもできない。ただ演出してこれからの若者たちに断片的でも刻印し、印象づけたいという思いはある。

丹下健三の紹介として、卒業設計からはじまって、戦前の大東亜関連のプロジェクト、広島のピースセンター・広島再建計画などを話す。戦前のものは東京と大陸を結ぼうとするいわゆる弾丸列車計画と関連があったこと、この弾丸列車計画は戦後の新幹線計画を準備したこと、九州新幹線はじつは大陸に向かうはずであった路線を鹿児島にむけて実現したと解釈できるかもしれない、などと解説。東京計画1960は、このままでは実現されていないが、東京湾横断道路しては実現されているなどと説明。また代々木オリンピックプールは明治神宮と軸線を故意にあわせており、明治/昭和を貫通する国家軸にして国家の象徴なのである、などと説明。

いずれにせよ丹下は、建築を構想するとき、文明だの国家だのより上位のもののビジョンを、見てしまう、見えてしまう、そういう類の建築家であったということを言いたかった。「ビジョン」とはそういうものである。

まだ成人式を迎えていないほとんどの学生たちがどう受け取ったかどうか、ぼくは知らない。10年後、彼らのほとんどがこの話を忘れているだろう。しかし20年後は何人かはぼくの話を思い出し、そのとき、理解したと思うのだろう。偉そうだが、教育とはそんなものであろうと思う。ぼくは目の前の若者たちにむかって話しているのではない。20年後30年後の、それぞれの分野の指導的人材となった未来の立派な彼らにむかって話したのである。