ブルーノ・タウト『都市の冠』

翻訳者である杉本俊多先生から賜った。ありがとうございます。

杉本さんは大学研究室の大先輩であり、建築史学における先輩でもある。ながながとODをすごす古き良き?伝統のおかげで、研究室での在籍もぼくとほんのすこし重なっていたので、今がチャンスといろいろ質問攻めにして教えていただいたことがぼくのキャリアの出発点にもなっている。数年前は非常勤講師としても広島に呼んでいただいた。三条の日本酒をごちそうになったり、すごい蔵書を見せてもらったり、ひさしぶりに学界なるものに立ち戻った気がしたものであった。

本書は、タウトが第一次世界大戦で崩壊してゆくヨーロッパのなかで、死と再生のようなものを感知しながら構想した都市ヴィジョンであり、つぎのさらに幻想的な、ほとんど彼岸的な『アルプス建築』への序章ともいえる文献である。その内容はある程度周知のことなのかもしれないが、今回、ドイツ建築史の権威によるきわめて深くかつ平明な日本語になっている。

原イメージはゴシック大聖堂をまさに冠としていただく中世都市である。

そこから出発して、それを同時代に回復するとしたら、どのようなものとなるか、というような思索にも思える。

とうぜん「宗教性」が鍵となる。タウトは意図してそれにふれている。しかし特定の宗派では代表されない宗教性である。これもまたヨーロッパ近代におけるカトリックとの対決のなかで生まれた新しい考え方である。フランスでは新キリスト教などという考え方である。近代の、自由な市民社会のなかで、しかもテクノロジーや新しい社会制度に包囲されて、そのなかで現代の大聖堂がその都市の冠なのである。

去年、必要にせまられバタイユの『ランスの大聖堂』を読んだ。若書きの、当初は発表されなかった小論であるが、やはり第一次世界大戦での戦災、都市は破壊され人びとは逃げ惑い大聖堂さえ被災した、しかしそのなかで大聖堂は救済のシンボルであった、そういうことが書かれている。そうは言わなかったにしても戦線の向こう側においても大聖堂は冠であった。

「ヨーロッパは絵画をするヨーロッパなのである」というべーネの言葉において、絵画は、さらには芸術の統合である建築は、いわば、宗教なき宗教であり、宗教なき宗教性であり、そのうえにヨーロッパの救済はあるのである。

中世のカトリック都市には大聖堂が冠としてあった。近代社会になって宗教と都市の関係がかわったとき、空位となった宗教にかわってなにかが据えられなければならない。そのなにかが、宗教性、芸術、芸術としての建築、そしてバウ(建設)そのものというものなのかもしれない。そして21世紀としては、情報ネットワークなどが代理宗教になるのかどうか、あるは私たちはそんなことを欲しているのか、といったことが課題なのであろう。

昨日、留学を希望する学生に、こんなことを話した。第一次世界大戦は国と国の闘いだった。それからほぼ100年たった今、ヨーロッパは金融危機・経済危機であるが、これは市場と国家の闘いだ。いずれにせよ歴史の転換点であるだろうし、それを現地で目撃するのは貴重な体験だろう、と。

ぼくの乏しい情報収集能力では悲観的な観測しかきこえてこないのだが、21世紀のタウトがいるとしたら、いまどんな希望を構築しているのだろうか?