菊竹清訓追悼記事

地元紙から依頼されたので書いたものを再録します。20日掲載であった。

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菊竹清訓
二〇世紀建築のヴィジョン
現代建築の神話性

建築家菊竹清訓氏が昨年の一二月に亡くなった。二〇世紀の日本を代表する建築家のひとりであり、国際的著名度も高い。私見によれば、内部に矛盾を抱えた建築家でもあったが、むしろそのことによって前世紀を代表していたようにも思える。
 一九二八年生まれの氏は、戦争直後の混乱のなかで早稲田大学で建築を学び、竹中工務店などで短期間勤務したのち、一九五三年には菊竹清訓建築設計事務所を開設し、独立している。戦後復興のなかで建築家が求められたのであろうが、順調な船出であったと思われる。
 一九六〇年東京で開催された世界デザイン会議に参加したときは三二歳という若さであった。この会議にあわせて川添登が準備した「メタボリズム」という概念、つまり建築や都市も生命体のように新陳代謝を繰り返し、けっして静的な状態には留まらないというヴィジョン、を彼もまた自分の思想として展開した。
 その代表的な傑作としてスカイハウス(一九五八)と出雲の庁の舎(一九六三)をあげることに異論はないであろう。前者は正方形平面の一室住居を、背の高い四本の壁柱が空中高くもちあげる。後者はスパン数十メートルのプレストレス梁が印象的である。いずれも建築の可能性の中心は技術であった。
 しかし出雲のインスピレーション源が、建築史家福山敏男が復元する高さ一六丈の雄渾なる出雲大社であったように、菊竹のいう技術は現代的だとはかぎらず、ときに古代的であり、神話的でさえあった。それは古代的な巨大さの表現なのであった。そして技術にかぎらず、社会、文明を論じることで彼は都市と建築を構想するのであるが、本来的などの学派からも自由にそうしたのであるから、建築家独自の思索としかいいようのないものであった。彼の建築が同時に神殿のような、社寺のような、ある種の宗教的アウラをも放出しているのはそうした事情があるからでもあった。
 そうしたなかで、弟子の伊東豊雄が「狂気」と形容した創作がつづく。都城市民会館(一九六六)は甲殻類のような異様さ、徳雲寺納骨堂(一九六五)はむしろ静謐な瞑想空間であり、ホテル東光園(一九六四)や京都国際会議場案(一九六五)は東大寺南大門のような架構の迫力を伝えている。
 いっぽうでアクアポリス(一九七五)や海上リニア都市(一九九四)はいささか紋切り型の未来派的であり、江戸東京博物館(一九九三)や九州国立博物館(二〇〇五)は賛否両論がある。
 結局のところ彼はいかなるヴィジョンを見ていたか、ということであろう。建築家が構想する建築は、かならずしも経済や社会や施主などといったなにかのそのままの理論的な帰結ではない。それは見てしまう、見えてしまう類のものである。菊竹清訓の場合はそのアフォリズムをとおしてあるていど想像できる。「空間は機能を捨てる」という、近代の機能主義を全否定したもの。機能を捨てるからこそ、あらたに機能を発見できるのであった。「柱は空間に力を与え、床は空間を規定する」というほとんど禅問答のようなもの。柱にアニミズム的な意味がこめられているのであった。
 二〇世紀初頭のアヴァンギャルドたちは建築をいわゆる様式から解放し、技術と純粋幾何学に還元した。一九六〇年代のラディカルたちは、それを経済や都市のダイナミズムと連動させることを考えた。彼はそれらの正統な嫡子でありながら、異なる側面をも見せる。その設計プロセス三段階論「か・かた・かたち」は、エルンスト・カッシーラーのシンボル理論や、武谷三男の『弁証法の諸問題』を参照しながらも、日本固有の言霊思想を導入しており、呪術的ですらある。近代の合理的思考の裏に、古代的なもの、神話的なもの、呪術的なものへの指向、が隠されていた。菊竹清訓のヴィジョンはその意味では典型的に二〇世紀的なのだが、それにしても彼が見ていたものを再現するためには、私たちにもイマジネーションが必要である。