名古屋出張

日帰りであった。4時間電車、1時間会議、4時間電車。でも新幹線のなかでは、駅弁+ビール、昼寝、読書、iPad、あれこれ思索、でとてもたのしかった。これで花粉がなければ極楽であった。

パリ。博覧会とミュージアム。ふたつは連動している。19世紀はじめは仮設展示が中心であったが、万国博がなんども開催されるのと並行して、常設のミュージアムが建設される。工芸博物館などがそれである。すると博覧会そのものを、百科全書的な普遍的なものから、しだいに的を絞ったものとなる。そういえば日本語では万国博である。でもフランス語を直訳すると普遍的展示である。普遍。つまりある種の世界観の表明なのであるのだが。それはともかく、20世紀になると美術などに的を絞ったものになった。シャイオ宮の建築遺産都市もそうであろう。これもまた仮設展示であったものの常設化である。すると仮設→常設のながれは、普遍的だが仮設であったものを、パリ市内の各地にすこしずつ常設化し施設化したことの歴史である。そして普遍であったものが個別化するに並行して、セクショナリズムがあらわれる。関連省庁が主役となる。これは日本でも同様で、宮内省と文部省への分割などといったことがフランスでもあったことは想像できる。

ヴェネツィア。都市がある時代にある状況のなかで、いろいろな建築プロジェクトが提案され、それに建築家がアプライしてゆく。それは普遍的な構図である。すると現代的興味をもって16世紀ヴェネツィアを考察することができる。本土での農地経営、交易の斜陽化、それにかわる毛織物産業、あるいは恒常的なラグーナ整備の課題、といったものを抱えていたヴェネツィアのなかで、リアルト橋、サンソヴィーノの図書館などがプロジェクト化される。いちばん知りたいのは、それがルネサンスマニエリスムの時代だということではなく、そうした産業構造のドラスティックな変化が、どのような思惑を生んで、どのような戦略を考えさせて、一連の建築プロジェクトを要請していったかというその構図であろう。そういう動向にアプライしたパラディオは、古典主義をもたらそうとしたのであったが、それはなぜか?

ぼくの仮説は、当時のヴェネツィアは印刷業もまた主要産業であったということ。そこには市内の建築プロジェクトを外に宣伝する、ウィトルウィウス建築書を出版する、ローマのルネサンス建築をプリントして出版するといったことが、一種の情報発信であり文化発信であり、それが経済活性化につながるというようなこともすこしはもくろまれたりしていたら?だからパラディオによる実現しなかったリアルト橋プロジェクトが、実際に建設されたもの以上に、外国とくにイギリスに影響を与えたことは示唆的である。

ヴェネツィアは人類最初の、本格的な建築情報発信都市であったかもしれない。それは実体の交易ではなく、建築イメージの交易であった、などという仮説は面白いんじゃないかと思う。

中国。建築史の先学たちは明治のころ中国に調査旅行にいった。そこでの調査が現代中国における建築史学の基礎にもなっているらしい。でもそれは日本が先進的であったということを意味しない。なぜならそのころ、日本建築の本質はなにかという定見もまだ確立していなかったのであった。だから当時の大陸は、中国も日本もない、まさに「建築」としかいいようのないものの理解が誕生した、そういう揺籃期であったかもしれない。であればそのあとにできた日本的なもの、日本的美学、といったものにこだわらない立場で、まさに「建築史」を構想し得るのかもしれない。できるできないはともかく、そのような時空が存在したことは確かなようだ。

人民大会堂天安門広場私見だが、20世紀はまさに時代錯誤的な誇大妄想的なプロジェクトが展開された時代である。ワシントンDC、ニューデリーゲルマニアなどはその典型である。近年の研究で北京のこうした記念碑的構築物の背景もわかってきたが、ぼくの素人的予感では、そのようなことである。それは社会主義とか資本主義とかを超越した、なにか20世紀の陥穽のひとつであったような気がする。

大橋良介『日本的なもの、ヨーロッパ的なもの』も車中読書した。全体としてはどうもであったが、カイヨウ的「遊び」が西洋ニヒリズムと仏教に通底する概念であるという点がなにか使えそうな気がした。ニヒリズムとはあらゆることが無根拠であるという達観である。そのままだと世界は崩壊するが、そこに「遊び」という概念を導入すると、ニヒリズムを生き、それと同時にニヒリズムを相対化することができるのだという。

ぼくの世代では遊び=カイヨウとしてむしろ常識である。しかし気がつくと、最近そういう遊び概念への言及はすくなかったし、昨今の暗い世相のなかではこの概念はすこしは有効なのではないかとも思う。

・・・そのようなことを考えながら今日一日を生きてみた。