伊藤毅研究室『地域の空間と持続』

標記報告書を送っていただきました。ありがとうございました。

これは東京の白山・丸山福山町地区を分析した報告書である。ひところの町並み・都市分析よりもさらに深く、100年間の人口構成の変化、土地所有関係の変化、町会などのコミュニティといった社会の変化、などという包括的な分析をふまえたうえで、フィジカルなさまざまな都市(地域)組織を分析し論じたものである。つまりマクロからミクロまで、100倍ズームで地区をとらえようというもので、なるほど地区の持続を論じよう、さらにいえば「持続可能性」のみならず、ともかくもこの地区が「持続してきたことの事実性」と、それを裏付けてきた背景を押さえようという意志が感じられる。

この地区の周囲は、江戸から明治、さらに戦後にかけて大きく変化したのみならず、大学、相対的に高級な住宅街、あるいは本論で紹介されているという花街、製本業など、時代をへるにしたがって、ますますヘテロジーニアスなモザイクという全体的な構成のなかの一部となってきた。そのなかで「持続」を問うのであるから、しかも科学的に問うのであるから、たんにさまざまな時代の影響を耐えてかいくぐって生きてきたのだあ、などという感嘆調でごまかさない、ということでもある。

パリのレアール地区が再開発されたとき、そこの中世から近代までの地籍図が30段階くらいで紹介され分析されていたことを思い出した。土地の所有あるいは区分のされかたは、諸世紀にわたる好景気と不景気の循環によって左右される。好景気は地価が上昇するので細分化され、不景気になると安くなるので統合され一筆はおおきくなる、というのが如実に示されていた。そのようなことなのであろう。

私事で恐縮だが、遠い昔、学生のころ本郷に下宿していたので、土地勘はないわけではない。本当は西片(『東京の郊外住宅地』でも紹介されていた)に住みたかったが家賃が高くて学生には無理であった。かといって後楽園のほうには建ち始めていたマンションはやはり家賃が高い。だから菊坂の路地裏に住み着いた文人たちと同じ?理由から谷底にある日照ゼロのアパートに落ち着いたのであった。道ひとつ隔てると、さらには、台地と谷底で、まったく違う世界であった。均質なようで都市はとてもヘテロジーニアスであり、人間というフィジカルにも経済的にもさして強くない生き物は、微地形というものにもつよく影響され、微妙で繊細なエコロジーを保ちながら生息してゆく。それが地区でありコミュニティである。

そういえば3年生のころ、演習課題で、本郷は菊坂ウラの、井戸や盆栽などがある路地裏空間をひとりでサーベイして提出したものであった。

つい先日も、卒計の講評会で、路地を復活させたつもりで理解不足のプロジェクトがあったものだから、樋口一葉の話し(今でも菊坂ウラには彼女が使った井戸があるそうである)などして説教してしまったものであった。それはともかく福山アパートの平面図も、地方から上京してきた単身者たちの住処であって、いまではどうでもいいが、まったくの人ごとではないだろうし、屋敷と長屋の関係も、結局は長屋が木賃アパートになり、やがてワンルームマンションとなって仕様は向上しても、構造的にはそんなに変化したというものでもないであろう。

そのようなわけで本報告書はたいへんよくできた地区マルチスキャンなのであるが、そのむこうに、体温をもったひとりひとりの固有な人間たちが見えてきそうである。報告書そのものはマルチ的な性格が強いが、それらが融合され統一されたイメージをむすびはじめると、それはひとつの作品のようなものとなるであろう。

そんなことを考えながら帰宅すると、机の上に、日曜日に公共図書館で借りてきた佐藤健二『社会調査史のリテラシー新曜社2011)があった。ちょっとこの偶然はできすぎているなあ、なんて思った。これもたいへん優れたメタ研究的な著作である。それは都市を分析することにおいて、やはり認識と存在の共犯性というものがあって、さすがに社会学者はそのことに敏感で、だからこのようなメタ都市社会学を書くのだなあという素人なりの感慨をもったのであった。だから『東京市社会局調査の研究』で明らかにされた「東京市社会局」による調査の目的はいわゆる下層社会を可視化することであって、・・・・といった位置づけ、さらに1920年代東京のなまなましい記録写真が再録されているあたりも、そういう意味で面白い。

「そこにおける都市とは『認識』の課題であって、実体的=現実的な対象ではない」(『社会調査史・・・』p.83)のだという。調査は「認識生産のプロセス」であるという。であれば『地域の空間と持続』もまた認識の生産をとおして地域をそして調査そのものを作品化するようなことかもしれない。

すこしくわしく読んでみようかな。