ヴェネツィアという建築情報の発信都市?

昨日のつづきですが、16世紀ヴェネツィアで建築書が多く出版されたことを再考したい。

もちろんこれは通説どおりであり、建築史の文献をひもとけば「16世紀ヴェネツィアでは印刷業が盛んで・・」はほとんど枕詞である。しかし通説というのももっと味わうべきかもしれない。なぜなら昨今の港町ブームで、16世紀ヴェネツィアでの産業構造の変化がくわしく調べられた研究もでているが、しかしアッカーマン『パラディオの建築』にもすでに、そのようなことはひととおり述べられている。つまりアッカーマンを読む私たちは、パラディオのネオプラトン主義的側面の理解に関心がいっていたため、アッカーマンがバランスよく書いているいわゆる「背景」の説明をそのまま通り過ぎていたのである。背景を前景化することも、だから、意味があるのである。

たとえば、なぜ、そもそもヴェネツィアにおいて出版産業が盛んになったか?ぼくはアルドゥス・マヌティウスの創業によって15世紀末から印刷業が盛んになったことを漠然と知るのみであって、くわしいことは知らない。ましてや、交易都市だったからこそ、交易するものが、実体商品から印刷物になった、いや印刷物も実体ではあるが、その情報としての側面が重要になった、つまりハードからソフトへの交易になったというような解釈が可能なのかどうか、しりたいものである。そういえばリヨンも内陸の交易都市であり、そこにおいて印刷産業が盛んになった。文献は販路がたいせつであり、交易都市のもつ既存の販路が出版業にとって不可欠であったというような推理はなりたつであろうか?

ヴェネツィアから出版=情報発信をおこなったのはパラディオが最初ではない。本格的にはセルリオである。かれはブラマンテらの盛期ルネサンスにかんする図版情報をもっていて、そのストックを活用して、ヴェネツィアから建築書出版をおこなった。それによってイタリアルネサンスの情報は、フランスやドイツに広まった。セルリオ自身もフランソワ一世というパトロンを見つけることができ、フォンテーヌブローで仕事をし、そして一時期はリヨンに立ち寄ったりしている。

そしてこのような情報発信によって広まったのが古典主義であり、建築の5つのオーダーであった。

しかし古典主義が出版ネットワークの充実により広まったというように一方的に解釈していいのだろうか?世の中でおこるさまざまなことは、しばしば転倒しているように、出版ネットワークのさらなる充実、出版業の発展のためには古典主義のようなものが必要だったのではないか?

たとえばパラディオの建築四書は、サーベイ記録、ポートフォリオ的な性格があるが、よくよく眺めると、古代ローマ建築→ヴィラという農場経営本拠地へのそのままの継続→リアルト橋という都市プロジェクトというように、ちゃんと系譜がとおっている。文献の構成として古典主義は欠かせないし、それはローマとヴェネツィアをつなぐ橋である。

セルリオの建築書も、古典主義=悲劇=シリアス、ゴシック=喜劇=市井、田園=風刺激=滑稽というその枠組みを信じるならば、それはサンソヴィーノのプロジェクトによってこれからシリアスな都市へと変貌しようというヴェネツィアの一種の宣言のようなものとして機能するであろう。それをローマの影響とするのはすこし平板なのであって、影響でもいいのだが、ではすこしばかりローマ的になろうとすることが都市戦略的にはどういう意味なのかをすこし想像してみてもいい。

すると建築情報ネットワークがでたので、そのおかげで古典主義が広まったというようなこともあったかもしれないが、しかしそれ以上に、広域的なネットワークが機能するためには、より普遍的な言語として古典主義が必要であったし、ヴェネツィアがそのネットワーク上で重要な地位をしめるためにはみずから古典主義の言語をしゃべる、つまり古典主義建築によって都市を美装することが必要だったのではないか、ということである。

これを都市プロジェクトの側から言い換えると、ネットワーク、すなわち「想定世界」のようなものがあって、プロジェクトのひとつひとつはそれぞれ都市内の限られた敷地と空間でなされるのだが、計画者の意識のなかではかなり広がりのあるネットワークのなかで構想されているという、16世紀であれ21世紀であれ、あたりまえに構図である。作品はのこる。しかし構想されたネットワークは忘れられがちである。

このようなこともサマーソンが古典主義=ラテン語として解説したこととさほど違わない。しかし通説というものは、通説であるのでぼくたちはなんの考察もしないで通り過ぎてしまうことがほとんどである。だからその深さをときどき確認したほうがいいと思ったのである。