スーパーにて

彼が早朝スーパーに買い物にゆくということは、とても珍しいことであったが、ともかくもその日の7時、そこにいった。しかも昼食の弁当のためであった。なぜなら彼は一日中自宅にこもって仕事をするつもりであったので、朝の散歩と買い物を同時に効率よく済ませてしまいたかったのだ。そんなつもりになることすら、なかなかないことであった。

しかし彼はその目的をすみやかに達成することはできなかった。なぜなら棚の前には、体格からはブルーカラーと思われる中年男性がすでに立っていて、せいぜい5種類ほどしか陳列されていない棚のまえでまよっていたからであった。中年は、ある弁当を手にとってしげしげと眺め、棚に戻し、別のものをとりあげ、またもどし、こんどは違う棚にいきかけるが、また途中で戻ってきて、別の弁当を手にして、また棚にもどす、という作業を再開するのであった。中年が弁当を選んでいる、というものではなかった。つまり、中年には弁当を買おうという意思があまり感じられなかった。というより異なる様々な弁当たちが、順番に、時間をおいて、この中年を呼びとめているかのようであった。

時間帯が時間帯なので広いスーパーにはほとんど他の客はいなかったのに、彼はたかが弁当一個のために数分を無駄に費やしたのであった。そのとき、弁当以外に目的をもっていないことの非能率を悔やみながら、彼は3日前のことを思い出した。

彼は別のスーパーに、分別ゴミ捨て場に、牛乳の紙パックを捨てようとしていた。もうすこしでゴミ箱というところで、あたかも割り込むように、中年女性がそこにやってきた。彼女はエコバッグに、おそらく一カ月分の牛乳紙パックをつめこんできていて、それ捨てようとしていた。あまりに多くに紙パックをつめこんでいたので、バッグからゴミを取り出すのにたいへん苦労していた。いちどには取り出せないので、2~3個ずつとりだそうとしたが、それでも苦戦は続いた。やがて彼女は気づいた。彼が同じ目的をもって後ろで待っていて、彼女の行為をずっと見ていることに。彼女は狼狽し、小声でごめんなさいと言い、さらに全部を捨てるまでに、まるでまる一日のように長い30秒をかけるのであった。

そんなふうに無為に待っているあいだ、彼はいろいろなことを思い出した。電車の混雑の話し。こんだ電車はますますこみ、すいた電車はますますすくという、電車間の相互誇張効果。一般的な待ち行列の話し。有名な思想家がいっていた偶然と必然の違いと相同性についての話し。

朝の7時に、お昼の弁当を買おうという同じ動機の中年男性と遭遇する確率はかなり低いであろう。さらに1カ月分の牛乳紙パックをかかえた中年女性と遭遇する確率もそうとう低いであろう。さらにいえば、彼が朝7時に弁当を買おうとしたのはおそらく生涯はじめてであったし、牛乳紙パックを捨てようとするのもせいぜい月1回であろう。彼と彼らが遭遇する確率はなおさら低かったわけだ。でもそういう変わった人と偶然に出会うのは、やはりそのスーパーの棚であるからであり、分別ゴミ捨て場であるからなのであろう。

でも偶然が成立するためには、彼と彼らとのあいだに、なんらかの類似性や文脈の共通性があるからであろう。彼らは同類なのであろう。ではどういう意味の、どういう背景の、同類なのであろう。そんなに強い接点ともおもえないが、それにしても彼ら中年の男性や女性は、彼にとって並行世界の住人であるように思えてしまった。さらにいえば、同じ構造をもったふたつの出来事が、ほんの二三日おいておきるという偶然には、なにか意味があるのだろうか。いや偶然というのは意味がないから偶然なのだと思っていたが、そうではないようだ。彼がなんらかの意味を与えそうになるから、偶然をまさに偶然として、認めてしまうのである。彼はそのことを自覚する。

そんな彼のもとに宅急便がとどく。経済学の解説書などがあった。そのなかの一冊が批判的に論じているのはアダム・スミスの見えざる手なのであった。